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倫之介の追憶・3
大正6年。尋常小学校を優秀な成績で卒業できた僕は、かやさんの紹介でチヨちゃんの父親である松尾眞吉さんを紹介してもらい書生となった。娘である瑞代さんは僕より2つ年上で当時14歳だった。2つのキッチリとした三つ編みで髪をまとめている彼女は性格もキッチリとしてそうに見えた。
「初めまして。佐々木倫之介と申します。大学卒業までの10年間、書生としてお世話になることになりました。よろしくお願いします」
瑞代さんに一礼すると、眞吉さんが瑞代さんに言った。
「倫之介くんには俺の仕事を手伝ってもらう。まぁ、学業が本分だから手伝ってもらうことなど知れているがね」
この時の僕は何も考えていなかった。
ただチヨちゃんとの約束を守り、チヨちゃんをお嫁さんにもらうことで頭がいっばいだった。
かやさんが他の篤志家ではなく眞吉さんに僕を書生にするように持ちかけた理由が、勉学がそれなりにできる僕に、跡取りになる教育をするためだと気付いたのは、かなり後になってからのことだった。
まだ跡取り息子がいない松尾家に、婚外子も含め、この先も男児が生まれなかったときのための保険だったのだ。それは画家になることを夢見ている僕にとっては理不尽なことだった。
着物や学問書や絵を描くためのノートなどの荷物を包んだ風呂敷を両手で抱えた僕が案内されたのは、2階の1番奥の部屋だった。
女中さんが木製のドアを開けると12帖の洋間が広がっていた。光沢のある木製の机と椅子とベッドと洋服タンスに整理タンスが置かれた部屋は清潔感があり、僕の目にはとてもハイカラに映った。実家には僕の部屋など無かったから、こんな立派な部屋を用意してくれていたことに驚いた。自分が跡取り候補になっていることを知らなかった僕は、書生の身でありながらと申し訳なく思ったし、感謝もしていた。
荷物の整理はあっという間に終わり、一息ついた僕は人生で初めてのベッドに腰掛けると、そのまま上半身だけ仰向けに寝転んだ。布団からは日向のにおいがし、窓からは綺麗な青空が見える。チヨちゃんもこの部屋を見たら喜ぶだろうなと、チヨちゃんの笑顔が脳裏を過ぎると僕も笑顔になっていた。そのときドアからノックの音が響き、僕は上半身を起こして立ち上がった。
「はい」
「あ、瑞代です。入ってもいいですか?」
「はい。どうぞ」
瑞代さんはゆっくりとドアを開けると「お邪魔します」と言いながらもドアを開けたまま、1歩部屋に入った所で立ち止まって話を始めた。
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