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倫之介の追憶・1
――一生青空を眺めながら暮らしたい。
彼女はよくそう言っていた。
終戦を迎えた昭和20年の冬、40歳になった僕は、彼女との想い出に胸を焦がせながら澄んだ青空を見上げ、白い息を吐いていた。歩く度にジャリジャリと音の鳴る砂利石が敷き詰められたアトリエの庭を散歩していると、見覚えのある男性が焦げ茶色のコートに赤いマフラーを身にまとい、風呂敷に包まれた手土産を両手で大事そうに抱きかかえた格好で、アトリエの門の前で立ち止まり声をかけてきた。
「倫之介くんだよね?久しぶり。大倉勇二朗です。1年?2年ぶりかな?元気そうで安心したよ」
スラッとして身長の高い勇二朗さんは相変わらずの人懐っこい笑顔を見せた。戦前から僕が生業としている生地問屋の取引先の息子だった彼は面倒見が良く、僕もかなりお世話になった。僕は驚きながらも懐かしさから頬を緩めていた。
「お久しぶりです。勇二朗さんもご無事だったんですね」
「ああ。俺は年齢的に召集令状を免れたからね。倫之介くんも無事だったって聞いて家のほうに伺ったんだけど、澄子ちゃんにアトリエだって言われたんだ。アトリエも無事で何より」
「大震災の教訓から鉄筋コンクリートにしたのが幸いでした」
「――奥さんは?」
妻が結核だったことを知っている勇二朗さんは恐る恐るといった感じに問いかけた。
僕は笑顔のまま静かに答えた。
「妻は今年の夏、戦争が終わってすぐに他界しました。あれから結局、不治の病でどうすることも出来ずに」
勇二朗さんは「ああ……」と言葉を詰まらせた。
しばしの沈黙ののち勇二朗さんとつかの間世間話をし、彼を僕のアトリエに招き入れた。
そこには僕が生涯を通して愛したチヨちゃんの絵と青空の絵ばかりが並んでいる。34年前の記憶が甦る。
1911年明治44年。尋常小学校の入学式に出席していた人見知りの僕は、校庭の隅で衝撃的な光景を目にした。6歳の女の子が、瓦屋根の木造校舎の2階の窓と同じ高さの木の枝に膝裏を引っかけ、鉄棒の技でいうところのこうもりの格好でぶら下がっていたのだ。
着物姿の人々の中、女学生のような袴姿に、頭には女学生に流行の大きなリボンを付け、ハイカラな装いの彼女はとても洒落て見えた。加えてその変わった行動により大勢に注目されているその姿は浮世離れをしていて、僕とは正反対で別世界の子のように感じた。
入学式に来ている新1年生とその保護者と教職員たちも注目して驚いている。僕も落ちやしないかとハラハラしていた。
「何をしてるんだ!!危ないから動いちゃ駄目だ!!」
男性教諭はそう叫ぶと校舎の中へと駆けていった。
僕の隣に立っていた綺麗な女の人が「ああ、もう!!」となにやら苛立ちながら女の子に呼びかけた。
「チヨ!!何をしているの!!?危ないから早く下りてきなさい!!」
口ぶりからどうやら母親らしい彼女の呼びかけにチヨという名の彼女は下りる素振りは全く見せずに返事をした。
「空はさかさまから見ても空だ!」
「なに訳の分からないこと言ってるの!?金平糖をあげるから早く下りてらっしゃい!!」
金平糖という言葉に反応したらしいチヨちゃんは身体を大きく揺らすとグルンと半回転し、木の枝に腰掛けた。それには見物人たちのザワつきが大きくなった。チヨちゃんの座っている枝のすぐ前にある窓では、さっき叫んでいた男性教諭が、窓の額縁に足をかけて木に飛び移ろうとしている。
「危ないからそのままじっとしていろ!」
男性教諭に顔を向けたチヨちゃんは無邪気な笑顔で「だいじょうぶ!」と言うと木の枝から下に生えている木の枝へと移り、木の幹を伝ってスラスラと下りてブーツを履くと母親のもとへ駆け寄って来た。
「こんぺいとう!」
無邪気な笑顔でそう言いながら手の平を上にして差し出すチヨちゃんの手を叩きながら母親は怒った。
「金平糖じゃありません!木に登ってはいけないといつも言っているでしょ!?落ちたらどうするの!?それに今日はたくさんの人たちに迷惑をかけたのよ!?謝りなさい!!」
ポカンとした表情になったチヨちゃんは顔をキョロキョロとさせて周りを見回した。
大人も子どももポカンとした表情でチヨちゃんに注目している。
「ごめんなさい!」
大きな声で謝りながら頭を下げるチヨちゃんに誰かの母親が「まぁ、子どものすることですし、無事でよかった」と言うと緊迫した空気が和み、いろんな人たちがチヨちゃんに話しかけ、チヨちゃんも初対面であろうたくさんの人々に笑顔で答えていた。
黒目がちの大きな目と白い肌が印象的な彼女の笑顔に目が離せなくなった僕にチヨちゃんが視線を向けて目を合わせると微笑みかけてきた。僕の心臓は大きく波打ち、ぎこちないながらにも笑顔をつくって微笑み返しをしたつもりだが、実際どうなっていたかは分からない。
チヨちゃんとその母親のことを遠巻きに見ている保護者も数多くいて、彼女たちがヒソヒソと陰口を叩いているのが聞こえてきた。
「ほら、松尾商会の旦那の蓄妾の」
「なんでも娼妓だったときに囲われたそうよ」
「娼妓は禁止されたんじゃないの?汚らわしい」
「松尾商会の奥さん知っているけど蓄妾のせいで精神を患ったらしいわよ」
「とんだ悪女ね」
親が言うことは子どもにも影響するもので、入学して間もなくチヨちゃんは『悪女の娘』と噂されるようになっていた。
「おまえのかあちゃん娼婦で悪女なんだろ!みんな言ってるぞ!」
数多くの流行物を扱う商人の息子で、勇二朗さんの弟である清四朗くんがチヨちゃんに絡んだ。対してチヨちゃんはあっけらかんと答えた。
「おかあちゃんはたまにオニみたいにこわいけど悪女じゃないぞ。しょうふってなんだ?」
「娼婦はいかがわしいことをする女のことだ!」
「いかがわしいこととはどういうことだ?」
この質問には清四朗くんも顔を赤らめた。
「い……いかがわしいことはいかがわしいことだ……!!」
そう答えるなり逃げるように仲間達のところへと戻っていった。
清四朗くんが入学式の翌日からいつもチヨちゃんのことを目で追っていたことを僕は知っていた。僕も気付けばいつもチヨちゃんを目で追っていたからその意味を理解するのに時間はかからなかった。
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