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歯磨きの理由
俺が27の年にボーナスを頭金にして買ったこの車だけれど、それからこの4年間、殆ど日曜日にしか乗っていない。平日は仕事でへとへとだし、その反動で土曜日は一日中、部屋で寝ているのだった。
渚沙のことも殆ど普段かまってやれないでいる。
だから日曜日の早朝、こうして渚沙を助手席に乗せ、一緒に市内をドライブして回るのは、俺にとって最も大切な時間だった。
梅雨の晴れ間。
夜まで降り続いた雨は止んで、今日は明るい陽光が射している。窓を開け放して走っていると、路面から揮発した水の清潔な香りがする。
だけど今日は、多分渚沙との最後のドライブになる。
「明彦君に私を譲るなんて、私はモノじゃないよ」
さっきから瞬きひとつしないで、フロントガラスの外を睨んでいた渚沙が呟く。
「渚沙をそんな風に思ったことはないよ。渚沙は明彦君のこと、好きだろ。だから」
「好きだよ。でも、それとこれとは別じゃない?」
「好きな人の所に行くのがいいよ。明彦君だって君の事を」
「何言ってるの?私が一番好きなのは、優君だよ。今までも、これからも」
渚沙は3年前のやっぱり梅雨の夜、アパートの階段の下で濡れて倒れていた。俺が助けて部屋に入れてあげたのがきっかけで、そのまま居ついてしまったのだった。
「ごめん。渚沙」
「どうするの?私はやっぱり明彦君の所に行かないとならないの?」
「ごめん。もう約束しちゃったし」
「馬鹿!」
「ごめん」
俺の目から涙が突然あふれた。
俺はしてはならないことをしてしまったのかもしれない。
涙で目の前がかすんだその時だった。
「危ない!」
渚沙が叫んだ。
市道を走るこの車の前に突然自転車が飛び出してきたのだった。
俺は急ブレーキを踏んだ。向こうも目を丸くして驚いている。俺と同い年位のひょろっとした男が片手でハンドルを握って走っていたのだ。俺は怒鳴ればいいのか謝ればいいのか一瞬逡巡したが、男はその間にそのまま走って行ってしまった。俺は気を取り直してゆっくりとアクセルを踏んだ。
「ね、優君。さっきの人さ。歯磨きながら自転車乗ってたね」
「あ?ああ」
「変じゃない?そんなの」
「変は変だけど」
「どこで、ぶくぶくぺってやるんだろう」
「飲むんじゃない?」
「げ。私は飲めない、それ。そもそもさあ、自転車でどこかに行くってことはちょっと距離がある。それなのに歯磨きって」
「謎だね」
「謎だわ。はは。あ。優君、泣き止んだね」
「え?」
「大丈夫だよ。私、明彦君の所でうまくやる。時々遊びに来てね。今日は晴れだから久々の野球の練習でしょ。私、優君のこと見てるから」
朝ごはんを食べると俺はユニフォームに着替え、渚沙を連れてグラウンドへ向かった。日曜日は地元の草野球チームの練習日だった。俺はそこで意外な人物と出会ったのだった。
「ああ!さっきの自転車の」
「あ!さっきの車の」
こんな偶然ってあるもんなんだな。
山崎さんと言う俺と同じ31歳のこの男は、今日からこのチームに加入したのだった。俺はセンター、山崎さんはライト。休憩になって俺はベンチの山崎さんの隣に腰かけ、歯磨きの件について質問した。
「ずっと朝から気になってたんだよ。謎だった。なんで歯を磨きながら自転車に乗ってたのか」
「あ。疑問ですよね。あれは、家の水道が止められてるとかそういうんじゃないんです。念のため」
「うん。わかった。で、なんで?」
「自分、畑借りてて、毎朝、自転車で様子見に行くんですけどね。その移動の時間が勿体ないってある時気づいて、何か同時に出来ることがないかと。ほら、読書とかは無理じゃないですか」
「ああ。それで、歯磨き」
「はい。畑には水道もありますしね」
成程。
「それより。あの、優さん。質問していいのかわからないんだけど。自分も朝からずっと気になってて。謎でした」
「何?何でも聞いて」
「なんであのぬいぐるみ相手に話しながら泣いてたんですか?」
山崎さんの指さす先には、監督の4歳になる息子、明彦君に抱かれた熊のぬいぐるみの渚沙が、じっとつぶらな瞳でこちらを眺めていたのだった。
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