香りの話・a

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香りの話・a

 廊下ですれ違った彼女は、いつものように甘い薔薇の香りがした。  今年の梅雨は長い上に晴れ間もほとんどなく、湿度の高い日が続いている。なかなか窓を開けるわけにもいかず、施設の中も空気がこもりがちだ。いつもはさほど意識しない香りにも、つい意識が向いてしまう。  所長からはいつも、ふわりとした甘い薔薇の香りが漂う。柔らかく女性的なその香りは恐らく、愛用している香水の香りなのだろう。世の中を斜めに見ている彼女にしては、優しい香りを纏うものだと思う。それが、彼女の趣味である紅茶の茶葉の香りと混ざり、上品な印象さえ受ける。  甘い薔薇、と言っても、付けてからの時間によるのか、その甘さの度合いはまちまちだ。だが、こんな湿度の高い日はより甘さが引き立ち、可愛らしい香りに感じる。やや甘酸っぱさのある可憐な香り。本人に伝えたら確実に殴られるので口には出さないけれど。  それにしても、と僕は思う。ああ、所長。可哀想な所長。貴女はその香りで上手く誤魔化しているつもりなのかもしれない。けれど。  貴女が隠したいであろう血の匂いは、その甘い香りの中で確かに香っているのですよ。
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