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エピローグ
白い、白い夢を見た。
正確には、白の群れを。
沢山の、白。その中にいる自分も、白。笑い声と、揺らめく光の洪水。きらきらとまばゆく、幸福に満ちたうつくしい世界。瞬きをする。その度に、白い世界に金や銀や蒼の燐光が舞い散る気がした。呼吸をする。その度に、虹色の粒子が身体を巡る気がした。
一点の曇りもない白の世界。同じ白の筈なのに、自分は他の白とは違うと、確信に近い思いを、抱いた。
「ん……」
目が覚めると、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。ソファーから身体を起こし、テーブルの上に置いた眼鏡をかける。
また、夢を見た。二度目の夢。とてもうつくしい夢だった気がするのに、胸に宿ったのはやるせない寂しさだった。何故そう感じるのか分からない。浮遊感に似た奇妙な感覚を持て余しながら、カーテンを開ける。
爽やかな、久しぶりの晴天が、窓の向こうに広がっていた。
*
「真白ちゃんが、カイくんと接触したようです」
午後の定例の打ち合わせで、大規からそう報告を受け、日野尾はつまらなそうにため息をついた。
「あぁ、成程ね。だからか。めんどくさ」
「……意外ですね」
「何が?」
「もっと動揺するかと思いました。……ご存知だったのですか?」
「いや? でも、いくら別々に生活させているとはいえ、同じはこにわのこどもなんだから、いつかそんなことも起こるだろうとは思ってたよ。接触相手が真白でホッとしたくらいさ」
「眠兎くんだったら?」
「こどもがひとり減ってたかもねぇ」
手元のグラスを触る。今日の中身は冷えたセイロンのオレンジペコだ。
「接触したのは真白だけ?」
「そのようです。ただ、二人の接触は他のこどもたちも知っています」
「接触頻度は?」
「真白ちゃんの話だと、梅雨の前に複数回。僕や所長の目を盗んで接触していたようでした。……何でも、〝秘密の友達〟だそうです」
秘密の友達、という響きの微笑ましさに、日野尾は思わずくすりと笑う。
「成程ねぇ、秘密の友達かぁ。カイがなーんか隠してるなぁとは思ってたけど、秘密の友達じゃあ仕方ないなぁ。……あんまり秘密は持って欲しくないんだけどねぇ」
大規が整えた資料にボールペンを走らせ、グラスに口をつける。癖の少ない、飲みやすい味。アイスティーも悪くないな、と思う。大規も顎下にマスクをかけたまま一口飲んで、「これ、飲みやすいですね」と感想をもらした。
「カイがいきなり、どうして人間には性別があるの? なんて聞くから困っちゃったよ。一体どうしたのかと思ったけど、そっか、真白と会ってたからなんだねぇ。お互い素直な子達だから、何かしら刺激を受けたんだろうねぇ」
「でしょうね。僕もこどもたちから同じことを聞かれましたよ」
「……なんて答えたの?」
「創世記の冒頭を、ちょっとアレンジして。所長こそ、なんて答えたんです?」
「とっても奇遇で不本意な事に、……創世記の内容を、ちょっとアレンジして」
「それはそれは」
ふてくされたような日野尾に対し、大規は口元に手を当てて笑みを零す。それを睨んでから、資料へと目を落とす。
「まあ、接触することで悪い変化がなかったのは良かったかな。秘密の友達を引き離すのも可哀想だしねぇ……ちょっと経過観察かなぁ」
はあ、とため息をついて、ソファーの背に身体を預ける。目を閉じ、再び開いた瞳には、僅かな苛立ちの炎が宿っていた。
「……夢さえ、どうにかなればいいのになぁ。カイは大分頻度が減ったけど、頑なに架空の姉さんがいると思ってるし、十歌に至っては……、ああ本当に本当に不愉快」
カチカチと、ボールペンをノックしながら、日野尾は続ける。
「薬物投与のないこどもの経過観察、という点では非常に意義があるし興味深かったけど。あれは何なのかな。あの物語はとてもとても気に入らない。物語になる前に殺しておくべきだった。生き残らせるべきではなかったよ、本当に。それとももしかしてこれが大規くんの狙いだった、なんて事はないよねぇ?」
触っていたペンをテーブルに放ると、赤黒い怒りを燃やした瞳を大規へと向ける。
「どうなのかな大規くん。あれがうつくしい中身を宿した結果なのかな? 私にはどうも、不穏分子にしか見えないんだけど」
日野尾のリチア雲母のような瞳が燃える。彼女の瞳が一番うつくしく見えるのは、怒りを宿す時だと大規は知っている。
大規もまた、夜を映した冷めた双眸で、彼女の瞳を見つめる。
「全ては実験です」
互いに目をそらさぬまま、日野尾は大規の言葉を待つ。
「より優秀で、うつくしいこどもと、理想の世界の為に必要なデータならば、貴女だって欲しいでしょう?僕は此処の研究員ですから。少しでも貴女と貴女の研究に貢献したい」
「……は、何処まで本心やら」
「もう少し自分の部下を信頼して欲しいものです」
蔑むように鼻で笑った日野尾に、大規は口元だけで薄く微笑む。
「夢というのは厄介なものですね。制御しようとして易々とどうにかなるものではないですから」
「そうだね。……ああ、いつだったか、君と胡蝶の夢の話をしたっけ。我ながら不適切な表現をしたと後悔しているよ」
「あの後、改めて調べましたよ。胡蝶の夢……あれは本来、物事の本質は変わらないという説話なのですね」
「そうさ。蝶であろうと人であろうと、自分が自分であることに変わりはない……見た目や世界がいくら変化しようとも、上辺の変化というのは見せかけにすぎない。本質は変わらない。あの時は、もっと俗っぽい喩えとして使ったけど……くだらないね。変化すれば、本質は変わる。本質が本当に変わらないのであれば、変化するということ自体が物事の本質なのかもね」
つまらない言葉遊びだけど。そう付け足して、再びグラスに口をつける。ゆっくりと、半分ほど飲み干してからテーブルへと戻す。溶けかけた氷が、グラスの中で小さな悲鳴を上げた。
「哲学の分野の話はさておき、夢の必要性って何だろうね。心理学的には、抑圧された無意識の現れとか、心情の変化が夢のストーリーに反映されるとか、……精神的に成長する時に同じテーマの夢を繰り返し見る、なんて話も聞いたことがあるなぁ……本当かどうか分からないけど」
「睡眠中に、脳が記憶や情報の整理を行う。その作業過程で再生されたものの断片を、人は夢として知覚するらしいですが……まだ未知の分野ですからね。正確なメカニズムは判明していなかったと記憶しています」
「記憶の断片、か」
「彼等の場合はどうなんでしょうね。実験体の共通夢。無意識の願望の現れなのか、本当に別の世界が存在するのか。それとも」
大規はわざと、そこで言葉を区切る。
「……誰かの記憶が、混在しているのか」
「冗談じゃない」
日野尾は不快感をあらわにする。差し込む午後の日差しに、彼女の瞳が瞬く。
「記憶の混在なんて有り得ない。記録ならともかく、個々の存在の記憶が混ざりあうなんて」
「けれど彼等は貴女の創造物です。古今東西、物語に作者の意思や意図は反映されるものじゃないですか?」
「それを言うなら君だって同じ事じゃないかなあ?君の意思や意図が反映されている可能性は考慮外かい?」
「いいえ。ですから、変化を操作し続けているじゃないですか。ずっと」
「………………。そうだね」
息をついた日野尾は、にぃー……っと微笑む。昏い微笑みだった。うっすらとにじむ狂気は、憩いを求めて逃げ水を追う白い蝶のような、脆い儚さがあった。
「幸せをつくらなきゃ。うつくしい物語を。きっとまだ足りないんだ。足りないからだから夢なんて見るんだ。だから、だからだからだから……私の為に、協力してくれるよねえ? 大規くん?」
「……ええ」
夜の底、真夜中を切り取った瞳に、うつくしい悪夢のような微笑みを浮かべ、大規は彼女を肯定する。
思想を。理想を。感情を。彼女の存在の全てを。
「ええ、それが、貴女の幸福に繋がるのであれば」
小さな世界の、小さな部屋で。
偽物の楽園の主は嗤う。
――夏は、すぐそこまで迫っていた。
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