番外・スプートニクの孤独

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 夜、仕事の終わりに、私は彼の履歴書を眺めていた。()れたてのラベンダーティーの香りが室内に漂う。  彼の本採用まで、あと一週間。  どうせ続かないと思っていたのに。履歴書に貼られた彼の顔写真を指先で触る。理想を捨てきれないと言った彼。平然と自分を偽る彼。嘆かわしいと怒った彼。三週間で見た、彼という人間の側面。  もしかしたら、と期待している。もしかしたら、彼なら此処(ここ)でやっていけるのではないだろうか。何もかもを知っても、この場所に留まってくれるのではないだろうか。  そう思う自分を、不快に思った。  どうして、私は不快なのだろう。この不快感の正体は何なのだろう。  がりがりと、胸の内を爪で引っかいているような感じがする。みみず腫れになった所から、血がにじむ。べたべたした体液の奥からぷつり、ぷつりと血の玉が浮かんで流れるイメージが頭に浮かぶ。胸の奥からがりがりという音がする。がりがり、がりがり。嫌な音が(あふ)れる。苛々する。爪を立てられている不快感。気持ち悪い、と吐き捨てたかった。  私は自分に問いかける。  何がそんなに嫌なの?  何がそんなに怖いの?  分からない。  *  研修期間終了まで、あと三日。  私は彼を連れて、研究区画の奥にいた。いくつかのセキュリティを解除して、冷たい金属製のドアハンドルを握る。  あのがりがりとした不快感はまだ続いていた。 「此処(ここ)から先はね、世間様の言う道徳や倫理から最も遠く離れた場所だよ。人間が本能的に遠ざけようとも、本能的に求めようともすることが詰め込まれた場所」  重い扉に手をかけたまま、私は呟く。 「だけどね、私は思うんだ。作り出した以上、最後まで責任を持つべきだって。理解は得られたためしがない。理解できないなら、此処(ここ)ではやっていけないし、要らない」 「……此処(ここ)は、何をする場所ですか」 「処理室だよ」  振り返ることなく、私は答える。 「出来損ないの物語を、処理する場所さ」  重い扉を二つくぐり、すぐ脇にあるスイッチに手を伸ばす。青白く照らされた室内。リノリウムの床と、クリーム色の壁。中央に鎮座する鉄製の手術台。いくつかの棚、その横に並ぶ大型の刃物。部屋の奥には鉄格子がはまり、その中で実験体が一体、横になっている。少し痩せた、十代前半の人間の子供の姿。私は施錠していた鉄格子を開けて中に入り、実験体の腕を掴む。そのままずるずると引き摺って鉄格子の外へと出す。実験体は抵抗しない。すやすやと、愛らしい顔で寝息を立てたままだ。それを、無理矢理手術台へと乗せる。 「生きているのですか」 「生体反応はある。でも、もうずっと眠ったままだよ。これはもう起きない。物語を紡ぐことなく終わってしまった。だから最後に、私の研究と娯楽に役立ってもらう。例えば、この個体はどこまでやったら死ぬのか、とかね」  そう言って、私は引き出しから使い捨てのメスを一本、取り出す。 「ねえ、君はどう思う?」  手にしたメスが、照明を反射してぎらりと光る。 「安楽死させないのは残酷だって思う?でもさ、私は思うんだよねえ。それって綺麗事じゃない?結局、処分することに変わりはないのに。殺し方だけを切り取って問題提起するのは間違ってる。でも、どうしたって処分は避けられない」  返事はない。手元のメスを見つめる。彼の顔を見ることは出来なかった。 「君には記録をお願いするけど、……耐えられなかったら出て行ってもらって構わない。邪魔になるから」  手術台で眠る実験体の、右手の小指の根元に、メスを当てる。 「まずは一本」  じわりと滲む赤は台の上に血溜まりを作る。ぴっとはねた血液が、私の頬や白衣にかかる。鮮やかな赤色。大好きで大嫌いな色。この色を見ると気分が高揚するような、落ち着くような、逃げ出したいような、愛おしいような、不思議な気分になる。  実験体に変化はない。 「二本目」  薬指を切断する。(あふ)れた血液は実験体を赤く染め、手術台から床へと伝う。転がった指が白い。そうやって、一本一本、指を切断していく。実験体に変化はない。目覚めることも、痛がることも、苦悶(くもん)の声を上げることも無く、すやすやと眠っている。  作業を行いながら、彼はどんな顔をしているだろうと考えた。あの冷めた瞳に浮かぶのは、嫌悪だろうか。軽蔑だろうか。どちらでもいい。さっさと見切りをつけて、この場所から立ち去ればいい。すりきれた借り物の道徳心で、私を断罪すればいい。  右手の指が全て無くなったところで、私は背後を振り返った。  彼は黙々と、記録を続けていた。夜を切り取った瞳に、血まみれの私と実験体が映り込む。その瞳に喜びも哀しみも見い出せなかった。 「どう?感想は?」  私の言葉に、凄いですね、と彼は言う。 「これは人間の血液と同じですか?」 「限りなく近い、と言って差し支えないかな」  彼は興味深く、手元のクリップボードにペンを走らせながら、実験体を観察する。人のかたちをした実験体。それを見る目は、実験用のマウスを見る目と変わらなかった。 「後で体液を分析させて頂いても構いませんか?ああ、断面の撮影の許可も」 「……いいけど」  そこに、恐怖も、嫌悪も、なかった。あるのは、純粋な研究欲。  ただただ、ひとりの研究者がそこにいた。 「……あのさ。今日は静かな実験体だけど、毎回こうとは限らない。泣きわめくだけになったものを相手にすることもあるし、状況を理解していない、一見人間の子供とほとんど変わらないものを処理することもある。君はそれでも、耐えられる?」  私の言葉に、彼はくすりと笑う。 「優しいですね」 「な、……っ」 「先程から、所長は僕を気遣って下さってばかりのように思います」 「別に気遣ってる訳じゃないよ。事実を伝えた上で、君の意志が揺らがないかどうか確認してるだけ」  言い訳じみた言い方になってしまった。だけど事実だ。大抵は耐えられない。そう、普通の人間なら。光の下を歩けるような、真っ当な人間なら耐えられるはずがないのだ。耐えられるとしたら、それは。 「平気ですよ」  どうということはない、という声で、彼は言う。 「僕の理想は、道徳や倫理の先にありますから」  ああ。 「君は……」 「どうしました?」  呆然と(たたず)む私に、彼は訊ねる。眉一つ動かすことなく。 「いいや」  それはとても嬉しいけれど。 「何でもないよ」  とても悲しいと思った。  借り物の道徳を持ち出すこともない。正義を振りかざす人間とも、異常を個性と履き違えた人間とも違う。  彼は倫理の外にいる人間だ。私と同じく。  自分の理想の為に何もかも置き去りに出来る人間。  自分の願望の為に何もかも利用することに躊躇(ちゅうちょ)しない人間。  ずっと、理解者を求めていた。同時に、理解者なんて現れなければいいと思っていた。  私と同じ。  それはつまり、人として世界からつまはじきにされたような、救いようのない人間なのだと、きちんと分かっている。そんな人間は、自分ひとりで十分だと思った。  気付けば、胸のがりがりとした不快感は消えていた。代わりに、無性に泣きたくなった。  きっとどうしようもなく取り返しのつかない場所に、私達は居るんだ。  *  一ヶ月の研修期間を終え、私は彼に訊ねる。 「それで、改めて聞くけど。君は此処(ここ)でやっていく覚悟はあるかい?」  真っ直ぐに彼を見つめた。夜を映した彼の瞳はぶれることなく私を見つめ返す。 「はい。この場所で――僕の理想と、貴女の理想の為に、貢献させて下さい」  私は頷いて、彼に手を差し出す。彼は私の手を取る。低い体温。私の手を振り払わなかった彼の手を、緩く握る。 「……よろしく。大規(おおき)くん」 「よろしくお願いします。日野尾(ひのお)所長」
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