退所十五分前

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「俺の電卓、誰か使ったか?」  その場にいる皆が顔を見合わせながら一同に首を振った。 「俺の電卓が見当たらないんだ。裏に俺の名前が書いてあるやつ。悪いがちょっとみんなの机の上をみてくれんか」  たかだか電卓、とりあえず他の誰かから借りればいいじゃないかと思ったが、課長はその電卓が使い勝手もよくてお気に入りだそうだ。  普段は温厚な課長が大声を出したことで、職場に異様な空気が流れた。皆が一斉に机の上の山積みの書類を掻き分けるようにして探しだす。私もつられるようにしてデスクの上や全部の引き出しの中、机の下などを頑張って探ってみたが、当然その電卓は私の手元にはあるはずもない。 「‥‥‥ないですねえ」  誰からともなくそう言うが、課長はまだ自分の机周りを必死に探している。そうこうしているうちに十七時になった。 「まあいい。取りあえず尾澤君の電卓を貸してくれ」  課長がそう言うとまさみさんは無言で課長に電卓を差し出した。  帰所時間になったので私がその場を立ち去ろうとすると、背後から不穏な言葉が聞こえてきた。 「ないはずがない。昼前にも俺は確かにあの電卓を使ったんだ。もし誰かが無断で使ってその辺に放置していたら、俺は絶対にそいつとは二度と口をきかん」  後で聞いた話だと、その時の課長は言葉とは裏腹に笑っていたそうだが、背中越しにその言葉を聞いた私にはその言葉は脅し文句としか思えなかった。冗談めかして言ったその台詞をリアルに信じてしまったのだ。  とはいえ電卓など私には無縁である。最後にまとめる書類のために使用することもないし、ましてや帰所したのが十六時過ぎなのだ。加えて、課長の机のものなどたとえ消しゴムであっても借用することなどあり得ない。  課長の言葉にビビりながらも、私は一度振り向いて「お先に失礼します」とだけあいさつしてその場を離れた。
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