桜木町の紅葉坂から

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桜木町の紅葉坂から

 JR根岸線の桜木町駅で降り立ち、改札にICカードをかざして通り抜ける。一月の土曜日、肌寒い潮風が吹き抜けていく駅舎には、往来する人々や待ち合わせの若者でいつもの賑わいがある。予定にはまだまだ時間がある。普段なら海へと続く東側に行くところを、何の気まぐれだろう、西側へと歩き始める。  桜木町駅に来るのは久々だ。横浜の大学、というのは名ばかりの山の上にある校舎で過ごした学生時代。内陸部の地方都市出身の自分は、よく港の風景を求めて海側の方を散歩していた。デートで訪れるときも、海側のみなとみらい。いや、あるいはたまに友人たちと飲み歩くなら、反対側の南方向にある野毛の飲み屋街という場合もあったか。だけど今はふらりと幹線道路沿いを北向きに行く。  途中で歩道橋を渡り、さらに高架下をのんびり歩いていると、ふと、足が止まった。せわしなく車の行き交う六車線の先に見える地名看板、「紅葉坂」。  桜木町にある紅葉坂。なかなか面白い名前の組み合わせだな、と思った。  車の流れが止まり、坂の方へと歩き始めた。看板の先は陸橋になっていて、その下にも幹線道路があるのはさすが横浜の中心部だ。陸橋の中央分離帯には木が植わっていて、葉はすっかり散ってしまっているけれど、紅葉の木だろうか。  紅葉色に塗られた坂が始まり、横浜らしく結構な角度のある斜面に住宅街が続いている。それにしても駅前の華やかさや、先ほどまでの道路の喧騒がウソに思うくらいに閑静だ。右手には見るからに高級そうなマンションがあると思えば、左手には普通のワンルームと思しきマンションも存在していたり。少し息を切らせながら歩く。東京の平坦な下町に暮らしている今、こういう眺めも久々で新鮮に感じる。  横浜は坂の街だ――そのことに気付くまでには、大学に入ってからさほどの時間を要しなかった。学校自体が山の上にあるというのもあったが、京浜東北線の車窓から見える坂にへばりつくような住宅街や、内陸部にある友人の家まで自転車を飛ばしたときなんかに、都度それを感じていた。人口300万人が海沿いの平地に住める訳もないから当たり前ではあるけれど、その特異な風景にはなかなか慣れなかったものだ。  ふと左手に威圧感のある石垣が現れた。何かあるのかな、と携帯のマップを見てみると、その敷地かは分からないけれど、伊勢山皇大神宮という神社が近くにあるらしい。行ったことはなかったけれど、何度か駅の広告だか初詣の記事だかで見たことのある名前だ。せっかくだから、と左手に折れて寄り道してみる。  しばらく行くと、小さな公園の横の三叉路で急に見晴らしが良くなった。穏やかな晴れ空の下、緑のフェンスの向こうに港方面のビル街が眺められる。海は見えないけれど、建物が途切れて、確かにそこにあると教えてくれる、横浜らしい眺望。  またマンションに挟まれたなだらかな登り坂を進むと、ようやく右手に石づくりの鳥居が姿を見せた。鳥居をくぐると、視界の右側にぶわんと大きな影の動きが見えた。石の舞台で若い男性が何やら大きな旗を振っている。応援旗? 祭の旗かもしれない。何かに向けた練習なのは間違いなさそうで、階段を上りながら横目で興味深く様子を見ていた。  二つ目の鳥居をくぐると、正面に小規模ながらも立派な本殿が見える。初詣の時期はもうとうに過ぎているけれど、参拝客が数人並んでいる。伊勢山皇大神宮、なんていかめしい名前の神社なだけあるな、と思っていたら、立て札を見つけた。三重の伊勢神宮の式年遷宮の際に移築されたものだということで、ああ「伊勢山」と納得がいった。順序としては、元から分社があって、この本殿が移されてきたようだけれど。  財布から十円玉を一つ取り出して、賽銭箱に入れながら、さて何をお願いしよう、と小首を傾げた。かつて、神社にお参りするときに伝えることは決まっていた。ほんのご挨拶です、良いご縁がありますように、だけどそれは五円玉と共にある言葉だった。  そうだな、と言葉を決めた。ご挨拶に来ました。二倍の額の十円玉なので、「わたしたちに」この場所で良いご縁を与えてくれてありがとうございます。……。  今度、大学時代から付き合ってきた恋人と、みなとみらいの会場で結婚式を挙げる予定だ。今日はその見学の前に、実家の平塚に住む彼女より早く来て、久しぶりに桜木町の辺りをぶらついてみようと思ったのだ。みなとみらいはこの神社の管轄なのか分からないけれど、境内からその方面を眺められるくらい近隣なのできっと大丈夫だろう。  一緒に映画を観たり、ショッピングをしたり、赤レンガ倉庫まで歩いたり……。学生時代に彼女とは何度も桜木町の辺りでデートをした。この場所で幸せな式を挙げられること、改めて今、嬉しさが胸の中に満ちていく。  神社の裏手から抜け、木立に包まれながらそんなことを考えていると、静かな通路の先に道がひらけた。また紅葉坂に戻ってきたらしい。改装されたばかりの外観の図書館や、歴史のありそうな煉瓦色の県の施設があり、紅葉のような色に塗られた坂の向こうにランドマークタワーが爽やかにそびえ立っていた。あの展望台にも二人でのぼったことがあったな。今日が良い天気で良かった、と感じ入る。  ふと目を移すと、坂に沿って巨大な洋風建築がある。クリーム色の外壁や内部に見えている白い尖塔は教会のような外観だけれども、まだ新しそうだし、結婚式場かな? と調べるとビンゴだった。眺めながら歩いてみると丸みを帯びた外壁や門についているランプや、細部まで凝った造りをしていて、さすが横浜の式場らしい瀟洒な空間に思える。例えば披露宴会場からはきっと海も眺められるのだろう。なるほどこういう所を候補にするのも良かったかな、と少し苦笑する。  結婚式の場所じゃなくても、と坂を下りながらふと思った。この辺りに住むのはどうだろうか。  新居をどの辺りにしようかというのは話し合っている最中だ。品川勤務の自分と、大船勤務の彼女。桜木町駅から根岸線・京浜東北線を使えば、どちらにも一本だ。ちょうどこの坂沿いとまで言わなくても、周辺も含めて結構な住宅街だし、きっといい物件は見つかるだろう。便利な所に住んでみたいなと彼女も言っていた。家賃は高いかもしれないけれど、二人暮らしなら多少狭かったりしても大丈夫。さっき図書館があったから本好きの彼女も嬉しいポイントだろう。  歴史ある神社や、華やかな結婚式場、四季折々の風景を眺めながら、生活を営む。それはとても素敵なことに思える。そして坂の先には、いつだって二人の好きな横浜の港がある。  海の方へと下りながら、後で提案してみよう、と思った。二人の新しい生活を、この場所から始めてみようと。  桜木町の、紅葉坂から。
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