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一章 初めましての貴女と
高校生活三度目の春を迎えようとしている。
学業も順調で、素行に問題もなく現状にほぼ不満はない。
ただ、貴女がいないこと以外は。
「雫、今日は終了式だったよ。雫が好きだった先生が来年度から異動になるかもしれないから、クラスで感謝会を開いたんだ。学級委員の子から花束受け取った瞬間に先生泣き出しちゃってさ。雫は先生のそういうところが好きって言ってたよね」
肩から荷物を下ろし窓を開けると、春風の暖かさを感じた。
「そうだ!先生が雫にって手紙と花束をくれたの。ここに置いておくね」
殺風景な部屋に、ひとつ色が生まれる。
「ねぇ雫、私ずっとここにいるよ」
異様に白く細い腕を握っても、反応はない。無数の管に繋がれた姿を見るたびに、どうしようもなく胸が痛む。
「あら赤坂さん、今日も来てくれていたのね」
雫を担当しているベテランの女性看護師とは話下手な私でも慣れてしまうほど、顔を合わせ、言葉を交わした。それほど長く雫が眠ったままだという悲惨な事実が脳裏を過ぎる。
「終了式だったので、少し話をしたくて」
「雫ちゃんと赤坂さんの制服姿、私もみてみたいな」
そんな期待も秒針の音だけが響く空間に放たれ、消えていく。
今日が面会を許可されている最後の日。強く手を握り、柔らかく頬を撫で病室を出た。
ー*ー*ー*ー*ー
春、更新された学級名簿には予想もしていなかった名前があった。
『青瀬 雫』
目の前で起きている事実を上手く呑み込めないまま教室に入ると、担任から職員室へ来るように声を掛けられた。
「咲玖、今年も一年よろしくね」
「東雲先生と最後の一年を過ごせることが本当に嬉しいです」
東雲 千夏は私達の学年を入学当初から受け持ち、柔らかく笑う雰囲気と安心感のあるお母さん的側面から生徒から人気の高い女性教師だ。奇跡的に異動が延期となり、今年も私の所属するクラスの担任となった。
「雫のことなんだけど、先に咲玖に伝えておきたくて」
「そう思ってくださりありがとうございます」
いつもの柔らかさを忘れさせる程の真剣な表情で彼女は語り始める。
「まず、雫は明日から通常通り登校する。授業もできる限り通常通り受ける予定なの」
「……そこまで回復したんですね」
「私も、これは奇跡だと思う。ただ……」
「ただ……?」
先生の顔色が一瞬にして曇った。
「雫の記憶だけは元に戻っていないままなの」
「記憶……?」
「雫自身のことも、御家族のことも世の中のことも、私達のことも全て戻っていない状態」
「……そうだったんですね」
「今は自分の名前から基本的なことを感覚的に思い出しながら、日常生活を送れる程にはなったみたいなんだけど、まだ難しい部分も多いみたいだから……」
「雫は大丈夫なんですか?わからないことに苦しんだり、雫自身を責めたりしていませんか?」
現状を聞いて一番に浮かんだ疑問が迷いなく口から出た。
「そのことなんだけどね」
必死に言葉を探す姿に胸が苦しくなる。
「咲玖の写真を見て泣いていたことがあると雫のお母さんからお話があったの」
「私の写真を……?」
「ぼんやりと覚えていたんじゃないかな。数日後に雫に同じ写真を見せても『わからない』って答えたらしいんだけどね」
幼い頃からずっと、雫の隣には私がいて、お互いの記憶にはお互いの姿があった。その事実は記憶をなくした今も、変わりなく残り続けていたらしい。幸せなことのようで、雫にとっては残酷な感覚を植え付けることになってしまうのかもしれない。
「断片的に思い出したってことですかね」
「クラスのみんなが口を揃えていう程ふたりは仲が良かったから、それもあり得ることだとは思うけど……本人にとっては辛いことなのかもしれないのよね」
事実、雫が事故にあったという報告を受けたクラスメイトの間で囁かれたのは雫の容態の次に私に関する心配事が多かった。それほど私と雫の仲は深いものだったのだと思う。
記憶をなくした雫に、今の私ができること。わからないことへのギャップに苦しむ雫の錘を少しでも解く方法。
「先生、私からひとつ提案してもいいですか」
「聴かせてほしい」
「私を転校生という設定にしてほしいです」
「咲玖を転校生として……?」
記憶がないことに苦しんでいるのなら、そもそも最初から無かったことにしてしまえばいい。
「クラスメイトにも協力してもらって名前を偽って、本当に初めましての状況にするんです」
「でもそれは……咲玖自身が辛くなってしまわない?」
「雫の隣に居られるだけで、私は幸せです」
この選択に苦しめられる瞬間がこの先にあったとしても、後悔する未来は見えなかった。
「私は咲玖の覚悟を信じさせてもらうね。本当にありがとう」
「名前を偽るって提案してくれたけど、候補はあるの?」
「……飛鳥」
「飛鳥……きっと込められた想いがあるのでしょうね」
『飛鳥』は雫が大好きだったアニメのヒロインの名前。本当の初めましてを作るといいながら少し未練がましさを感じてしまうことは目を瞑ってほしい。
「この先、一番関わるであろうクラスメイトからの協力が必要だと思うので先生も一緒に話に行ってもらえますか?」
「待って咲玖。教室に行く前に会ってほしい人がいるの」
「会ってほしい人……?」
職員室からすこし離れた空き教室に案内される。戸の前に着くと『ここからはひとりで』と先生は去っていった。
「失礼します。赤坂 咲玖と申します」
緊張の先に待っていたのは雫の両親だった。
「咲玖ちゃん……久しぶり」
ひどく痩せた紗香さんと、濃いクマの残る拓海さんの姿に言葉を失う。
「お久しぶりです……またお会いできる機会をくださりありがとうございます」
「そんなに緊張しなくて大丈夫よ。私達も咲玖ちゃんに会いたいってずっと思っていたの」
雰囲気の変化はあるものの、以前の温かさは変わらずに残っていた。
「ホームルームまで時間もないでしょうから、早速話をしてもいいかな?」
「せっかく来てくださったのですし時間は大丈夫です。紗香さんと拓海さんの時間の許す限りお話したいです」
「ありがとう、そう言ってもらえて少し気が楽になったわ。今日は雫のことを話に来たの」
「全て受け止める準備はできています」
私の目を見た後に『ありがとう』と頷きながら一度息を呑み、紗香さんは口を開く。
「千夏先生から雫の今の状態について少しは聴いているかしら?」
「記憶についての話を先程伺いました」
「じゃあ……写真のことも聞いたの?」
「その話も……はい」
少し躊躇いながら話す紗香さんの視線が不定期に拓海さんに向く。この話をするということはそれほど形のない何かを締め付けるものだった。
「咲玖ちゃんは雫と、これから先どう関わっていきたいと思ってくれているの?」
「私は……」
「咲玖ちゃんの気持ちを素直に教えてほしいな」
言葉探しに時間を要したものの、答えに迷いはなかった。
「私は雫のそばに、隣にいたいです」
「雫の状態は咲玖ちゃんが想像する以上に、咲玖ちゃんを傷つけてしまうものかもしれないよ?」
私の答えに口を開いたのは、拓海さんだった。
「もし雫が、私といることで苦しむようなことがあったとしたら必要に応じて距離を取らなければいけないと思います。ただ、私は雫の隣に入れることが何よりも嬉しいことなんです」
「咲玖ちゃん……」
「だからどうか雫の隣にいさせてくれませんか……?」
冷静さを失いつつある状況下で、情に訴えるような話をする自分自身に卑怯さを感じてしまうけれど、この言葉を否定する嘘を見つけることができなかった。
「来年の四月」
「え……?」
「来年の四月までが雫の記憶が戻る可能性のある期間なの。ただ可能性は極めて低い」
紗香さんからの突然の告白に鼓動が早くなる。
「一時的に戻ることもあれば、突然全てが蘇る可能性もある。それと同じように、このまま戻らない可能性もある」
「期間は一年……」
「咲玖ちゃんにその一年を託してもいいのかしら」
「私に……ですか?」
「記憶が戻っても、そうじゃなくても雫には咲玖ちゃんの存在が必要だと私は母親として思うんだ」
躊躇うはずの選択への答えがひとつしか浮かばなかった。
「紗香さん、拓海さん。私にその選択肢を与えてくださって本当にありがとうございます」
少しの世間話を挟んだ後に名前を偽ること『転校生』という設定で雫の中にある記憶と、現実と差を浅くしたいと考えていることを話した。
最初は理解に追いついていない表情を浮かべていたものの、最後にはその案を肯定し協力的な言葉をくれた。
「それでその新しい名前はもう決まってるの?」
「苗字はそのまま残して『飛鳥』という名前にしようかなと考えています」
「それってもしかして……」
口角を少し緩ませながら紗香さんの綺麗な手が、あのヒロインの決めポーズをつくる。以前雫の部屋で一緒に練習をしたことが思い出され、感傷に浸ってしまいそうになる。涙を抑えるように強く目を瞑りながら深く頷く。
「咲玖ちゃん。そして飛鳥ちゃん、これからもよろしくね」
「紗香さんも拓海さんも、ここにはいないけれど雫も。よろしくお願いします」
教室に戻ると、先生が雫の状態と明日からの私について説明をしている最中だった。イレギュラーな状況に当然のように困惑は生まれているものの受け入れようという雰囲気がそこにはあった。『飛鳥』という名前に違和感を持ちながらも普段通り接してくれる姿勢が感じたこともないほど温かく感じた。
ー*ー*ー*ー*ー
上手に眠れないまま次の朝を迎える。覚悟ができていたつもりでも雫の想像のつかない姿を考えるとドアノブに手を掛けた瞬間、自部屋の扉を開けるのを躊躇した。仕方なく水を胃に流し込み家を出る。重い足に抗うように駆け足で教室に入ると隣の席には彼女の姿があった。
「雫、おはよう」
彼女の両親と話した際『以前と変わらない距離感で接してほしい』と言われたこともあり違和感を持ちながらも以前の雰囲気を探り話しかける。
「おはようございます」
事故前、腰あたりまで伸びていた黒髪は肩あたりまで切り揃えられていて、振り向いて見えた喉元には人工呼吸器の名残が濃い赤色で残っていた。目立った外傷はないものの筋肉の衰弱から声が掠れていてうまく発声ができていない。雫の変化に戸惑う心を必死に沈める。
「ごめんなさい、今よく覚えていないことが多くて……」
「実は私も少し前に転校してきたばかりでわからないことが多いんだ。雫とは少し話したことはあるけど、ほぼ『初めまして』って感じかな」
「……そうだよね!やっぱり転校生の子だよね!ぼんやりとは覚えていたんだけど、教えてくれてありがとう。学校にはもう慣れたかな?」
全てを忘れている雫の反応は私の想像をなぞるようなものだった。笑っている顔がすごく苦しい。わからないままでいいのに、どうしてずっと優しさだけは忘れられず、失くせずにあり続けるのだろうと喜ばしいはずのことが残酷に感じてしまう。
「席も隣だしこれからよろしくね。そういえば……お名前を聞いてもいいかな?」
名前、私の名前は。
『赤坂 飛鳥だよ。これからよろしくね』
きっとこの嘘の苦しさは貴女と生きていくという私の中の幸せな決意だ。
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