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一度息を吸い込めば肺が凍りそうになる、それくらい寒い夜でした。なのでヴァルハイトはできるだけ浅い呼吸を細かく繰り返して体温を保とうと必死です。ふと視界に黒いものが通り過ぎて顔を上げれば、ちょうど一羽の鳶が去っていくところでした。鳶は大きく羽を広げて緩やかに吹く風を受けてヴァルハイトが目指す先へあっという間に飛び去っていきました。ヴァルハイトは夜の闇へ消えていく鳶を羨ましく眺めていました。僕だって大きな翼があれば何日も移動しなくて済むのに。視線を下ろせば頭をのそりのそりと上下させて、一歩一歩ゆっくりと歩く駱駝の頭が見えます。ヴァルハイトはあたりを見回しました。草木も人工物もない、砂の山や谷、平原が広がっているばかりです。まるで世界から取り残されたように心細く思いました。
息が苦しくなっていた時、夜風とともに前方から歌が聞こえてきました。
梅の狭間に見える鶯
雨粒に踊る蛙
秋の夜に忍ぶ鈴虫
雪月を見上げる椿
台所に立つおっかさんの背中
釣りをする父の眼差し
私はどこへ行く
一番星に問いかけて
低く朗々と響く声はまるで音楽ホールで歌っているかのようにどこまでも届く素敵な歌声です。歌っているのはヴァルハイトの四つ上の兄、アイザムです。ヴァルハイトはアイザムの歌がとても好きなのです。両親を知らないヴァルハイトにとってアイザムは兄であり、友であり、そして親でもある、そんな関係です。寝付けない時に兄は今の様によく子守唄をうたってくれました。兄の声を聞くだけで夜の静けさや怖さが気にならなくなってすぐに寝られたのです。きっと歌でなくてもお話や雑談でもよかったんだと思います。ヴァルハイトは首に巻いていたマフラーから口を出して兄に呼びかけました。
「まだかかるの?」
「まだだね」
「どのくらいかかるの?」
「どのくらいだろうねえ。でも、あそこを目指していればいずれ、必ずたどり着けるさ」
兄が指した前方を見上げたヴァルハイトはあっと声を漏らしました。強弱様々に輝く星屑の中でひと際光っている星がちょうど駱駝の頭の、遥か彼方に、でもはっきりと見えました。右側で青く光る月でさえも、一番星にはかないません。ヴァルハイトが口をあんぐりしたまま眺めていても、彼を乗せた駱駝はのっそり、のそりと一歩ずつ一番星に向かって進んでいきます。
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