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朝、福岡の博多に到着した。今日は全国的に雨が続くという予報もあり、こちらもしとしと雨が降っている。ひとまず博多駅内で朝飯を買って食べることにする。 「私、チョコクロワッサン」 ったく。図々しい女である。 吉野に促されるままバスターミナルからまた違うバスに乗り、高速道路を走る。福岡と言えども、4,50分走れば田舎だ。高速道路の途中、八女インターバス停で降りる。俺が持っていた荷物の中に折り畳み傘があったので、少し小さいがふたりで入ることにし、少々歩いて下道へと降りた。 そこへ、吉野の父親らしき人物がトラックに乗って現れた。 「沙織!よく来たな。さぁ乗って乗って」 俺のことをなんと言って説明したのだろう。中型のトラックへ、吉野の父(勇夫さんと言うらしい)、吉野、俺の並びで乗り込んだ。 勇夫さんの家は、昭和の面影を色濃く残した日本家屋だった。 立派な門構えに瓦屋根。それにしても、庭も含めると150~200坪はあるんじゃないだろうか。デカい。 お風呂に昼食にと世話になり、着替えまで貸してもらった。時刻は既に15時をまわっている。 「今日は泊まっていってよ。そろそろ雨が止むだろうから、それから見に行こう」 夜な夜なバスに揺られるよりは、余程ありがたい状況だ。それより吉野、俺に用事があったらどうするつもりだったんだろう。まぁ、特に用事はないけれど。 勇夫さんの言うとおり、雨は16時には止み、晴れ間がのぞいた。さぁさぁとまたあの中型トラックに乗せられる。 10分ほど走った山道沿いで降りて、勇夫さん、吉野、俺の順番に、細い小道を歩いて下る。 「うわぁ……」 吉野が声を上げた。俺も顔を上げる。 視界一面の濃い緑。棚田になった茶畑が、雨のしずくをいっぱいにたたえて、日の光を反射しきらきらと光っていた。自然の生命力に圧倒される。風向きだろうか、雨の匂いにまざってほのかにお茶の香りが鼻をくすぐる。さわさわ、ざわわと、風のリズムに合わせて葉っぱ同士が擦れる音がする。 「すごいね……」 吉野がそう呟いたきり、三人横並びになって、思い思いにその光景を見つめた。 「雨のあとのこの景色、すごいだろ。もう2週間ばかり雨が降ってなかったからさ、助かったよ。雨が降らなかったら、自力で水を撒いて回らなきゃいけなくなる」 確かに、これだけの広さすべてに水を撒くとなると気が遠くなりそうだ。 「お父さん、おじいちゃんのとこの仕事が嫌で逃げたんじゃないかと思ってた」 吉野の言葉に、勇夫さんが深く息を吐いた音がする。 「……お義父さんの会社に入って、コネ入社で何もできない奴だと思われるのが嫌で。業績を上げるために部下に無茶な仕事を振って、できない奴には厳しく追及した。平気で人を蔑むことを言った。怖かったんだよ。自分が何もない奴だってバレるのが。人を傷付けてでも、自分を守りたかった。気付いたときには、俺の周りは誰もいなくなってた。愚かだったよ」 勇夫さんの話を聞きながら、俺は原田とその取り巻きを思い出していた。ただの嫌な奴らだと思っていたけれど、彼らも何かしらの弱さや寂しさを抱えているのかもしれない。 「そうして逃げてきたのが、ここってわけ。小さい頃よく手伝わされてたの思い出してさ。毎日毎日、目の前にあることをやってるとこだよ。情けないだろ。何か格好いいこと言えたらよかったんだけどなぁ、もう見栄張るのはやめたんだ」 そう言う勇夫さんの声はやさしかった。俺は「逃げた」とはっきり言ってのける大人を初めて見た気がする。 「お茶の季節はな、新芽の新茶が4月なかばから5月。その次が二番茶。今が三番茶の季節」 「これから摘むの?」 吉野が、目の前の葉に手を伸ばしながら尋ねる。 「場所によるけど、うちは三番茶は摘まない。次の年の新茶の時期に、より旨味を凝縮させるために。――人間もさ、そんなふうに生きられたらいいよな。志とか夢とか、立派だけど。何もしてないできてない時だって、雨が降って日が照って、息はしてるだろ。何かしら考えてはいるだろ。立派に、自分の人生の旨味を凝縮させてる時間じゃないか」 付き合わされただけの俺も、景色よりいいものを見た気がして、涙ぐみそうになった。 「俺ちょっと下のほう見てくるから」 そう言って、勇夫さんが茶畑を下っていく。 吉野が俺に向かって頭を下げた。 「ごめんなさい」 「今さらかよ。お金は勇夫さんに返してもらったし、なんなら俺のぶんまで出してもらったし、なんかいいもん見られたし。もういいよ」 「そうじゃなくて。学校でのこと」 え? 「私、知ってた。私の写真、原田たちに売られてたこと。それ取り返そうとして、学校に来られなくなっちゃったんでしょう。ごめんなさい。私のせいで」 その言葉に、あの時の記憶が蘇る。 原田が吉野の写真を隠し撮りし、それを売っていた。見つけた俺は、すぐさま原田からそれを取り上げて怒鳴った。 「こんなことして恥ずかしいと思わないのか。今すぐデータを消せ、これは犯罪だ」と。原田はニヤニヤしながら俺を見やった。「そんなこと言って、自分が欲しかっただけだろ?」。言われてカッとなって、殴った。 そこを教頭先生に見つかった。 俺は本当のことを話したが、原田は「そんなものは知らない」と言い張り、周りも原田に同意。あろうことか俺が吉野の写真を隠し撮りしていたとまで言い募られた。職員会議で俺は1週間の謹慎処分。原田はおとがめなしとされた。原田の父親が議員をやっていることもあり、問題はそれ以上蒸し返さないようにと学校側からお達しがあった。 「俺が弱いからいけなかったんだよ」 「弱くなんかないよ。そんなこと言うなら私のほうが弱い。知ってたくせに、私は助けなかった。いじめられてるの、見てるだけだった。最低だよ」 「お互い弱っちぃな」 「弱っちぃね」 段々と連なる茶畑を見下ろしながら、弱さを認め合う。ここから何かが始まる気がした。 「私本当はお金持ってた。お年玉、貯めてたから。バス停で見かけたとき、荷物見て、あ、辞めるんだって。もう今しかないって思った。変なことに巻き込んでごめんなさい。でもどうしても伝えたかった」 「ありがとう、篠田先生」 吉野がぽつりとつぶやいた。 今日私物をすべて回収して、校長にも退職届を渡してきた。俺はもう先生じゃない。たった3年ちょっとの教師生活で、ほんのわずかでも、誰かのためになれた。情けない自分が、恥ずかしいと思っていた自分が報われた気がした。俺のほうこそ「ありがとう」だ。 今はまだ歩き出せないけれど、いつか。 さわさわ、ざわわ。雨粒をのせた茶畑が葉を揺らす。 もう一度芽吹けと、声援を送るように。 <了>
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