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雨が吉野沙織を連れてきた。 夕方、急に降って来た雨。ベンチひとつぶんくらいの屋根付きバス停に、俺と彼女、ふたりきり。雨がやむ気配はない。 「バス代、貸してくれない?」 声を掛けられたことで、ようやく彼女を見る。 雨を含んで束になっている、胸までまっすぐ伸びた黒髪。半袖のシャツから覗く華奢な白い腕。色素の薄い茶色がかった瞳に、少し吊り上がった眉毛。しっとりとした薄い唇は、少し青みがかっている。 そんな、西中学校一のマドンナと言われる彼女。 「いいけど。いくら?」 「3万くらい?」 俺の問いに吉野はにっこり笑いながら、中学生にしては桁違いな金額を申し出る。 「どこまで帰る気だよ」 冗談だろう。ツッコミを入れる俺に、彼女が言う。 「福岡まで」 「は?福岡?吉野って東京の人間だろ?」 ここは東京。何がどうして福岡なのだ。俺をからかっているのか?しかし吉野はもう笑っていない。その目は真剣そのものだった。 「もう夕方なんだけど。明日じゃダメなわけ?」 吉野が頷く。やめてくれ。そんなすがるような目をするのは。だいたい理由はなんなんだ。理由は。 タイミングがいいのか悪いのか、ちょうど目の前に『福岡行』と表示された一台の大型バスが停まった。 「話し出したら長くなっちゃうから。道中説明する。このバス逃したら次もう無いの」 え?俺も? そう言う間もなく、腕を引っ張られるがまま福岡行きの夜行バスへ乗り込んだ。おいおい。どうなるんだよ。でも、お金だけ渡して一人で行かせるわけにもいかないし……。 俺は観念して母親にメールを入れた。 『今日友達の家に泊まることになった。また連絡する』 吉野にも親に連絡するよう言う。ふんふんと気のない返事をしながらもスマホで連絡しているようだった。 学校は夏休みだからいいけど、いやよくはないけど。 とにかくヘンなことになってしまった。 「そろそろ理由言ってくれない?」 俺が水を向けると、やっぱり話さなきゃダメ?と吉野が上目遣いに俺を見る。許しそうになるが、いや。ここは心を鬼にして首を縦に振る。 彼女の話はこうだった。 つい最近、両親が離婚した。 父が急に仕事を辞めて、福岡の実家に帰って農業をやりたいと言い出したのだという。生まれてこのかた東京で過ごし、実家も裕福だった母は頑なにそれを拒んだ。母方の祖父が経営する会社で働いていた父は、自由になりたかったのだろう。 話し合いは平行線をたどり、夏休みに入ると同時に、ついに父が出て行った。 その父から、彼女あてに気になるメールが届いたのだという。 雨が降ったらおいで。いいものを見せてあげられる、と。 いいものってなんだろう。夏休み中、雨が降るのを今か今かと待っていた。塾帰りの今日ようやく雨が降り、行ってみることにしたのだという。 「お金どうするつもりだったんだよ」呆れて言う俺に、「えへへ」と笑ってみせる吉野。 無計画もいいとこだ。それにいいものってそんな、子ども騙しな。 乗ってしまったからにはどうしようもない。到着予定は朝の9時。雨の中走るバスの音をBGMに、俺たちはひと眠りすることにした。 もっとも、隣に吉野がいるとあっては寝ようにも寝られるわけがないのだけれど。 俺は、学校でいじめられていた。 原田を中心とするグループに目を付けられたからだ。 ある日を境に、俺が話しかけても、誰もこたえてくれなくなった。完全に無視。俺の顔写真を卑猥な格好をしたものにコラージュされ、黒板に貼り付けられた。『篠田はヘンタイ』と俺の名前を黒板にデカデカと書いてあるのを目にした。ひそひそと笑う声。軽蔑する目。 俺は何も悪くないのだから、堂々としていればいい。そう思ってはいても、人から向けられる悪意というものは着実に心を蝕んでいく。 あるときから、学校へ行こうとすると眩暈がするようになり、電車に乗れなくなった。 夏休み終盤の今日、学校へ荷物を取りに行ったのだ。バスを乗り継いで。バス停までは遠いが、致し方ない。 学校にいたのは数人の教師だけだった。誰もが自分を憐れんでいる気がする。 自分がこんなに弱い人間だとは思っていなかった。 雨降る夜道を走るバスの中で、ぼやけた街灯のあかりを何度も何度も見送る。 俺は、己の情けなさに打ちひしがれていた。
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