始まり

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そしてキッチンで黙々と洗い物をしている春香は、基本、二重人格。 客の前では常に笑顔、愛想を振り撒いているが、居なくなった途端に豹変する。声は1オクターブから2オクターブ下がり、口角も下がりっぱなしだ。また、それを隠そうとしないのもこの女だ。 春香とは半年違いで店に入り、わたしのほうが少し先輩だが、同い年ということもあり、気兼ねしない仲だ。 店自体はカウンター5席、4人掛けのテーブル席が3席と決して広くはないが、客足が絶えないのは、間違いなくこの店長のおかげだ。 普段はボーッとしているが、料理に関しては、その手際といい味といい、世の中の料理人の中でもトップクラスの腕だと思う。 そこはわたしも春香も認めている。 立て続けに3本たばこを吸い終えた店長は、カタツムリ並の動きで椅子をテーブルへと上げていく。 「ねえ2人とも、これから飲みに行かない?」 拭いているワイングラスごと手を挙げたのは、春香だ。「行く!行きます!もちろん店長の奢りですよね?」 「奢らなかった時、ないでしょ・・・」 「いえ〜い。雪音は?行くでしょ?」 「んー」正直、キンキンに冷えたビールには心惹かれたけど、今のわたしが欲してるのはビールより熱いお湯だ。それに——「今日はやめときます。次は是非」 「ノリわる」猫被りから即、非難が入る。「てことは、店長とふたりぃ・・・?」 「俺、営業モードの春香ちゃんのほうが好きかも」店長が切なそうに呟いた。 「だって、2人で飲んでたらカップルだと思われそうだし」 「親子じゃなくて?」サラッと言ったが、店長の切ない視線を感じた。 「人間、お世辞のほうが嬉しい時もあるよね・・・」 「ていうか、アンタこの前も来なかったじゃない。体調でも悪いの?」 「ううん、眠いだけ」それも嘘じゃない。 「あっそ、ばーさんみたいね」 この女の本性を、客に見せてやりたい。 「あー、やっぱりさぁ、家で待ってる人でもいるんじゃない?」 この類の話は無視されると知っていて、毎回よく言うぞ店長よ。
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