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1. 往路
笠之村。
その廃村について情報を提供してくれたのはNさんという女性だった。
四六時中雨が降り止まず笠が欠かせないから〈笠之村〉。古い文献では傘の村や翳ノ村など表記揺れが見られるが昭和期以降は笠之村表記で統一されているそうだ。
――しかし実在するのだろうか? 雨が続く土地なんて……
バスの窓ガラスを絶え間なく濡らす雨は、山に入った辺りから突然に降り始めた。Googleマップ上ではあと五分程で村の境界線に入る。
耐水機能付きのiPhoneに念のため雨避けのカバーを被せ、撮影の準備は万端だ。
「お兄さん、YouTuber?」と前方の座席からスーツ姿の会社員が振り返って尋ねた。皺の刻まれた青白い手首に、ゴツいブランド物の腕時計が巻かれている。
「いえ。これは趣味で――って、もしかして泊野社長じゃありませんか。ご無沙汰しております。僕、以前に〈トマリノ物流〉で働いていた空木です!」
「えーっと……」と彼は薄くなった後頭部を掻き、「悪いね。俺ァ見ての通りのジジイで、物忘れが酷いんだ。ゴメンなあ」と苦笑した。
「こちらこそ、すみません。お世話になったのはもう十年以上昔のことなので覚えていらっしゃらないのは当然です」
市営バスの狭い車内に気まずい空気が流れ、うっかり口にしてしまった言葉を戻したい気持ちに駆られた。
知人だと思ったのは勘違いだったかもしれない。
大学時代にアルバイトをしていた陸運会社の泊野社長は、当時まだ四十半ばの若社長だったから、現在は五十半ばか後半。多く見積もっても還暦。
だが目の前の男性は、どう見ても七十歳は超えている。
外は厚い雨雲に覆われて薄暗く、街中ではあんなにけたたましかった蝉の鳴き声はずうっと遠ざかり、山斜面の縁を流れる側溝からゲコゲコと雨蛙が、オーオーと牛蛙が鳴く。
ゲコゲコ……
オー、オー……
ゲコゲコ……
オー、オー…………
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