1. 往路

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「あっ!」と男性が飛び上がった。「お前、もしかして、あの大学生か。牛蛙保護協会の空木!」  バスがごとんとカーブを曲がり、彼は「おっと」と慌てて手摺りに掴まった。 「大丈夫ですか」 「ウン、思い出したよ。出勤初日に遅刻して来たかと思えば、『道端で迷子のペットを保護したのですがどうしたらいいですか』ってどデカい牛蛙を抱いて現れた大学生を、いくら呆けても忘れないだろォ」 「……そのエピソードは忘れて欲しかったですけど……。いや思い出してくださったのはもちろん嬉しいんですよ」  僕達は顔を見合わせて笑った。  泊野社長が座席を移動し、隣に腰掛ける。 「大きくなったなァ。一瞬誰だかわからなかったよ。いくつになったんだ?」 「アハハ。子供扱いはよしてください。もう三十も半ばです」 「そんなになるのか……俺も老ける訳だ」  社長は遠い目をした。  十八の頃、大学に進学し社会勉強にとアルバイトに応募した先が〈トマリノ物流〉だった。面接は都内の貸しオフィスで行われたのに、勤務先は電車で一時間は要する郊外という詐欺同然の採用。  自分で言うのも何だが、僕は所謂ボンボンである。実家は閑静な住宅街の一等地にあり、蝶よ花よと育てられた末っ子のお坊ちゃまで、虫や生き物は取るものではなく専門店から購入するもの。  本物の牛蛙を見たのは、あの日が初めてだったのだ。あんなに巨大な生き物がまさか野生だなんて思わず、きっと逃げ出したペットだろうと丁重に保護して事務所に持ち込んだところ大笑いされたという訳だ。  小さな会社の紅一点、田中ミホさんという事務のお姉さんが面白がって、「牛蛙保護協会の空木君」だなんて間抜けな綽名を付けられたのも、いまとなっては青春の思い出である。 「いやァ大学四年間ウチで働いてくれて、しかもちゃっかり大手に就職決めたんだからホント偉かったよな。今も最初の会社で上手くやってンのか?」 「まあぼちぼちですね」 「ぼちぼちかー」  実のところ一社目は水が合わず早々に辞めてしまい、以来あちこちを転々としている。日頃のストレスを誤魔化すべくギャンブルで散財したせいで借金もあって、恋人には振られたし、友達とは疎遠になり、親からも愛想を尽かされる始末。  しかし趣味は充実しているのだから、人生悪いことばかりではない。お陰で懐かしい人とも再会できた。 「泊野社長は、今日はお仕事で?」 「ンー……仕事っていうか、半分はプライベートかな。空木は? さっき趣味がどうとか言っていたけど」 「ええ。副業でライターをしているんです。知人から面白いネタを貰ったので取材に。このスマホは記録用です」 「まさか笠之村に行くんじゃないだろうな?」  社長の剣幕に、僕はやや怯んでしまった。  だが、「つまり目的地は同じか。ハハ」と続けた彼の表情は、元のひょうきんさが戻っており、ほっと胸を撫で下ろす。 「次は終点、笠之村――笠之村――」
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