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空の高いところに細かい雲が浮かんでいる。地面に近い地上では湿気が収まらず、ぬるい空気が網戸から入ってきて扇風機の風が規則的に背中を行き来する。
問題集をきりのいいところまで済ませたらカメラを持って散歩するつもりであと一問をじりじり考える。
個展を終えて、僕はスイッチが入り、真面目に勉強を始めた。
部屋の中は片付かない作品が積み重なり、油のにおいが充満する。
「もう、臭いわねえ」
あたりを掃除しながら文句を言う母親は、僕が個展を開いたあと、なぜか少し元気になったようだ。
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身を入れて勉強したおかげで翌年から県の職員として働くことが決まった。
合格したと言った時、
「本当?」
と母親が涙ぐんでいた。
「今までかかったお金を返したら、ひとり暮らしをするよ」
「そう? でも、無理しなくていいわよ。個展のお金もかかるでしょう」
僕が見下ろす母親の小さな頭には、なんだか白髪が増えたような気がする。
久しぶりに届いた本田からのメールで、彼が高校教員の採用試験に合格して地元の美術教師になると知った。奴も帰ってくる。僕は、おめでとうと打った後、こちらは相変わらずです、と付け足した。
入庁してしばらくは、研修と仕事を覚えるのとで毎日が忙しく、役所と家の往復だけでへとへとになった。どうせこうなるんだったら、卒業の翌年に公務員になっておけばよかった。
仕事に慣れたら絵と写真を再開しようと、しばらくの間は部屋の片隅にカメラや画材を置きっぱなしにしていた。
数カ月経ち、ひとりで外回りをすることになった僕は本田と連絡をとって、久しぶりに会うことになった。彼が勤める高校は田園地帯にある新設校で、周りの道が綺麗に舗装された、眺めのいいところだ。
室井も一緒に行けないかと声をかけてみたが、予備校の講習でどうしても行けない、と残念そうに言っていた。
当日、相手先の打ち合わせを終えると近くのバス停まで歩いていった。
新しくてまっすぐな道路の両側を、膝まで伸びた蒼い草がすき間なく埋めている。
がらがらに空いたバスの後部座席に座る。青く広がる空の下には、緑色の稲の波が続いていた。
待ち合わせの校門前に立つと、下校する生徒たちが、誰だろうというように見て行く。僕は恥ずかしくなり、バッグを後ろ手に持ち、うつむいて本田が来るのを待った。
「なんだい、きちんとした格好をして」
片手をあげてこちらに近づいてきた本田は、生徒以上に僕のことをじろじろ眺めた。大学の時に就職活動をしていなかった僕のスーツ姿を見るのは、これが初めてだから仕方がない。本田はTシャツとグレーのパンツに白衣をはおっていた。
本田の後に付いて校内に入る。校庭の土やそれを囲む植え込み、校舎の造りや壁の色を見ると、今まで自分が通った中学や高校、教育実習で行った付属中学を思い出す。
どこも違うようでいてどれもどこか似ている。大学から大学院そして高校の教師になった本田は、ずっと学校の中で生きている。廊下ですれ違う生徒から会釈される姿は、もう一人前の教師に見えた。
授業が済んだばかりの美術室にはまだ誰もいないけれど、これから部活動が始まる期待が静かに満ちている。
準備室には資料や画集や書類が詰まった棚があり、その床には大小さまざまなサイズのキャンバスといくつもの段ボール箱が置かれていた。
「片付いてなくてすまない」
本田は頭を掻くと、ドリッパーとサーバーを机の上に置き、パソコン近くの書類を除けた。油絵のにおいのなかにコーヒーの香りが混じり合う。
ドアの横に立てたイーゼルには、五十号キャンバスに描きかけの絵が置かれていた。
夜と深海を合わせた背景に、鮮やかな色を抑え細かく描きこんだ鳥かごと花。細い金属が静かに輝き、その横で柔らかい花びらが硬質な金属に対して生身を主張する、互いに譲らない存在の葛藤があった。この絵を見るのは初めてだけれど重く濃い色遣いと細かく描き込みながら大胆に雰囲気をつくる筆遣いはまさに本田の絵だった。彼の画風はずっと変わっていない。
僕は高校生の頃に覚えた興奮をいつの間にか感じなくなっていた。
「どう?」
本田がコーヒーを手渡しながら聞いてきた。
「相変わらず上手いな」
並んで腰かける僕らの背後から、午後の校庭を駆ける生徒たちの声が聞こえた。
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