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ボランティアの看板が立つ教会のそばを、画材をかごに入れた自転車を引きながら住所を書いたメモと電柱の表示を見比べる。絵を教えてくれるという画家の教室まであとすこし。よろけて歩く僕は足元を見つめた。細い道はアスファルトがめくれ、両側の畑の土と同じ色のひびが入る。
古いアパートの一室に小さい木の札がかかっている。自転車を近くにとめ画材の入った袋を抱えて呼び鈴を押す。誰も出ない。そっとドアノブを回す。鍵がかかっていない。さすが画家だ。施錠など気にしない奔放さにわくわくする。
「こんにちは」
一応、声をかける。しばらくして、
「どうぞ入ってきて」
痰をからませた声がかえってきた。普段から鍵を開けておく習慣のようだ。 並べてある布製のスリッパは黒く汚れて湿っている。
「こっちです」
声がするほうへ、ぺしぺしとスリッパのうすい音を立てて歩いていく。
ドアが開いている部屋をそっと覗くと、黒い布製の背もたれ椅子に男が埋もれるように座り両手を肘かけに乗せていた。
髪の毛と髭がつながり皮膚があらわれているのは顔のごくわずかしかないが瞳はしっかりこちらを見ている。
床の上には紙くず、ガラス瓶、空き缶、袋からこぼれた菓子くずが散らかっている。色あせた茶色のカーテンが揺れる掃き出し窓は半分開いているが部屋の空気は重く動かない。
僕は急に心細くなり、生徒たちのいる賑やかな美術室をなつかしく思い出した。高校生たちの美術室、そこも整頓されてはいないけれど画材やモチーフだけが置いてある、絵を描くための乱雑だ。ここの生活臭い散らかりかたとは違う。
「高校生? 名前は?」
「佐野翔太です。きのう電話しました」
「なにをやりたいの?」
来ればすぐ何かを指導してくれるんじゃないのか。虚を突かれて、
「受験用のデッサンを教えてほしいんです」
と答えると、心得顔でうなずき、
「じゃあそこにあるラボルトを描いて」
と顎で指した。石膏像が六体並ぶ棚にデッサンの教本が積んである。本に書いてあることを教えるの? それならここに来たりせず、僕一人で本を見ながら練習をすれば済む。
小銭を払って木炭紙を買い、画家が差し出したねとつく物がくっついている木炭をことわった。
イーゼルを置き、椅子に座ってラボルトをじっと見ると石膏がグレーに汚れている。部室で見ている白くてきれいなのを思いだしながら形をとる。
画家は鉛筆を削ったり菓子を食べたり、ふと立ち上り散らかって狭くなった八畳間をうろついたりしている。
けだるくうつろな気持ちで木炭をすりつけていると、主婦ふたりと中学生の女の子が遅れてやって来た。
主婦は愛想よく画家に挨拶すると手土産のお菓子を広げてお茶を入れだした。みんなでテーブルを囲みだすと佐野君もおいでよと手招きする。どきどきしながら席についてお茶を飲む。
中学生は毎日来ていて、画家は
「この子は上手いよ」
としきりに褒めた。彼女の描いたモリエールを見せてもらうと、輪郭を濃く描き過ぎてレリーフみたいになっていた。奥行きを感じられない、ぺたっとした平面的な絵だった。
画家は僕のデッサンを後ろから覗きこむと、
「ちょっとかして」
と言って木炭を取り上げ、椅子とイーゼルをずらし、描いた線を全部消してしまった。角度が変わってしまったし、僕は画家があたらしく引いた線が気に入らない。
すっきりしない気持ちで帰り、そのもやもやは吐き気に変わって胃と胸を苦しめた。
何度も手を洗い、持って行った画材を丁寧に拭いた。
その日はベッドに入っても眠れずむかむかしながら暗闇の中で目を開いていた。芸術と生活の区別を付けない混沌を見せられ、それは僕にはどうにも受け入れられない。
それにしても、お茶の休憩を頻繁にとり、お喋りをするなんて、行くところを間違えた。
次に画家のところへ行ったとき、
「今日でやめます」
と言うと、画家は
「あっそう」
と投げやりに答え、不愉快を隠さなかった。
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