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僕は母親に頼み直し街の美術予備校へ行くことにした。
同じ画材を抱えてバスに乗り、ケヤキが並ぶ舗装されたひろい道を行く。
ビルのガラス窓を見上げ回転扉をくぐり、床が磨き上げられたフロアに入ると、場違いなところにいる気がしてならない。
窓から外を見ると、街路樹が枝をきれいにそろえて澄ましている。
エレベーターで四階に上がり、受付で名前を告げると事務員と話していた男が近づいてきて、突き当たりの右の部屋へ行くように教えてくれた。そして気さくに手を伸ばしてきて、
「ちょっと道具を見せてくれる?」
と受付の人の目の前で僕の画材を調べ始めると、
「これじゃ足りないから来週までにこのビルの並びにある画材屋で揃えておいて」
と必要な道具一式が書かれたプリントをよこした。細かい字でびっしり書かれたリストには新しく買わなければならない画材の名前が並んでいる。交通費や塾代のほかにどれだけお金を出してもらわないといけないんだろう。絵がうまくなるように向上心を持つって、こういう迷いをふっ切ることなんだろうか。
お金がかかる、という現実を知り、こころを硬くして教室に入った。
四、五人の生徒がちらっと見て特に関心もなさそうに視線を戻す。この生徒の数が多いのか少ないのか、この態度が不親切なのか普通なのか、僕にはわからない。
自信ありげに座る彼らの机にはおそろいの透明なプラスチック製の道具箱が置かれ、たくさんの鉛筆、木炭、スケール、練りけしが透けて見える。それが新品ではなくすでに短くなり汚れたりして使い込まれている。その様子は充分に僕を威嚇した。
プリントをくれた男が入ってきて(山崎という名の講師だった)僕のことをみんなに簡単に紹介すると、すぐ授業が始まった。
円、三角形、四角形をつかいモノクロで平面構成する。配られた紙を見つめるだけで手を出すことができない。教室の中で一番ものを知らずへたくそなのは自分だという思いで頭の中はいっぱいで、その日の授業のあいだずっと気持ちの弱さにつきっきりで椅子に座っていただけだった。
自分の体が消えてなくなりそうな思いをしたままビルから出てきて、ふらふらと歩いた。
このまますぐバスに乗ったら、へたへたとくずおれてしまいそうな気がした。
どこかに一度逃げこまないといけない。
本屋に立ち寄ると、僕の落ち込みに関係なく明るい蛍光灯が輝き、その下を知らない人たちが気ままに行き来している。
誰も僕が予備校で一番下手だと言うことを知らない。僕さえ平気な態度を取っていれば誰も心の中など知ることはないと思うと、それまでの気後れがぽろりとはがれ落ちた。
受験用のデッサン本を六冊立ち読みして二冊レジへ持って行く。
家に帰るとすぐにデッサン本を開き、ビニール製のショップバックから買ってきた道具を出して机の上に並べた。
どれもぴかぴかに光り、とがっていて、僕の指紋がつくのを拒んでいる。
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