水曜日の雨は羽衣

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 「雨、ひどくなってきたね」  張り詰めた空気をごまかすように、彼がそう呟いた。私は上手く相槌も打てず、ただ黙って頷く。  「僕、呪われてるんだ。雨に」  「…え?」  「好きな子といると、いつも雨が降る」  この重たい沈黙を紛らわすために、彼がその話題を提供したのはわかっていた。笑い話でもするような笑みを浮かべていたし、口調も冗談ぽかった。  けれど、私にとっては決して他人事でない、捨ておけない話だった。  目を大きく見開いて彼の横顔を見つめる。  私の過剰反応に彼は少し戸惑ったような苦笑いを浮かべた。    「信じないよな、こんな話。…子供の頃、家族で海に行った時、途中で雨が降ってきた。僕はまだ遊び足りなくて、早く戻れって親に言われても、聞かずに泳ぎ続けてた。けどどんどん雨が強くなってきて、そろそろ帰らなきゃって思った時に…流されて、溺れたんだ」  沖へ引き摺り込もうとする潮の流れは強く、もがいている内に、意識を失った。  夢と現実のあわい()に、小さな女の子の声が聞こえた気がした。目を開けようとしたけれど、海水で痛んでうっすらとしか開かない。しかしその僅かな視界に、幼い女の子が映る。女の子。女の子?そう、顔は。けれど腰から下は──銀色に光る鱗と、滑らかにしなる尾鰭。  人魚だ。  『あなたの事を助けてあげる。その代わり、これからのあなたの恋を頂戴。人間の、地上の恋を食べると、人魚は美しくなれるの。心配ないよ。雨を通じて貰うだけだからあなたは痛くもかゆくもないし、私が成魚になるまでの間だけだから』  何を言っているのか、よくわからなかった。  恋を食べる?貰う?  深く考える余裕もなく、ただ助けてくれるというその言葉に縋るように、かろうじて頷いた。  いつのまにか岸に打ち上げられていて、命は助かった。  夢だか幻だか、何だかわからない。そう思っていたけれど、実際に雨は降った。誰かに恋をする度に、雨は降り続けた。  好きだと思ったその相手を見つめる時、話をする時、一緒に過ごす時、別れる時。いつも、いつでも、雨は降った。霧雨の時もあれば、災害に近い豪雨の時もあった。  呪いが現実のことなのか、彼に纏わりつく憂鬱な雨の影がそうさせるのか、理由はわからない。けれど彼の恋愛はいつも短命か、あるいは始まる前に終わった。  喰われているのだ、と思った。  「こんな胡散臭い…変な話してごめん。今まで誰にも話した事なかったんだけど…なんだろうな。何となく君には、話してみたくなって…」  そう言って、彼は少し気恥ずかしそうに笑った。    私はようやく気付く。  毎週水曜日、渡り廊下を通る時だけ降るにわか雨。  あの、日常からほんの少し爪先を踏み出して、どこか別の世界に誘うような秘密めいた空気を纏った、神秘的な、不思議な雨。  それに気付いたのは、あの嵐の日の後。  彼と初めて話した、あの日の後だ。  それが降るのは──いつも、彼とすれ違う、水曜日の午後。  彼といる時、雨はいつも降っていた。  
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