水曜日の雨は羽衣

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 話をしている内に、アパートに着いた。  彼は先に車を降りて、助手席側に回りドアを開け、私に傘を差しかけてくれる。無言で促されて、話も車を降りた。    車のドアを閉める彼を、私は瞬きもせずに見つめた。視線に気付いた彼が不思議そうに首を傾げる。  「……あの……」  彼を引き留めようとする声が、無意識に私の唇から漏れ出る。  その時、傘の下で向かい合う私と彼の間に、ぽぽっと小さな火の玉が浮かび上がった。  ひとつひとつは小さなものだった。  けれど、次から次へと。  いくつも、いくつも。  あたたかい橙色の炎が、際限なく湧いて出る。  その小さな灯火(ともしび)は、群れをなす蛍のように私達を囲み、照らした。  彼は驚いて、え、と小さな声を上げて、辺りを見回す。  私はぎくりとした。  このひとも逃げてしまうかもしれない。幼いあの日と同じように。私のほのかな恋情を、振り切って捨て去るように。  けれど、彼はそうしなかった。  そっと私の肩に手をかけて、自分の体で庇うように身を寄せた。    「蛍…じゃないよな。触ると危ないかもしれない。早く部屋に…」  逃げない。  このひとは逃げなかった。  肩に触れる大きな手から、私を守ろうとしてくれる意思が伝わってくる。  私の目から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。私達を囲む火の玉のひとつひとつが、ふわりとひとまわり大きくなった。髪の先に触れたそれが、ちりっと毛先を焦がす。    彼の手を掴んで、傘を奪って、閉じた。  途端に大きな雨粒がざらっと降りそそいで、私達を濡らす。  その雨に、数えきれない火の玉も、ひとつずつ消されていった。  雨よ、降れ。  もっと強く、たくさん。  そうして私の呪いを、どうか消して。  どうか、綺麗に、洗い流して。    「──私、信じる。信じます。人魚の話も、雨の呪いも。…だから、私の話も聞いて欲しいの」  月も星も重く厚い雨雲に隠れ、その(まばゆ)い姿は見えない。辺りを照らすのは、頼りない街灯と誰かの部屋の明かりだけ。夜の闇は深かった。  でも、ちょうどいい。  雨に打たれ涙でぼろぼろに崩れた顔を、まともに見られずに済むのだから。  勿論聞くよ、と、濡れそぼった彼が穏やかに微笑んで言った。  雨はいつのまにか勢いを弱め、渇きひび割れた大地を満たす慈雨のように、優しく降り注いでいた。    長い呪いの日々に灼かれひりついた私の肌を、包み込み労わってくれる、やわらかな羽衣のように。                ── end  
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