シベリアと満州で、大正浪漫

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 ロシア東部、シベリア地方の南方は、その大部分を鬱蒼とした針葉樹林の大森林に覆われている。常緑針葉樹のトウヒ、モミ、マツ等が生い茂る太古の森だ。この大森林地帯をロシア語でタイガと呼ぶ。英語のタイガーとは関係がない。しかし、このシベリアにはトラが生息している。ネコ亜科の動物の中で最大級の巨体を誇るシベリアトラだ。人間も餌食にする獰猛な肉食獣である。  今、日本軍の将兵二名が、タイガのど真ん中でシベリアトラと対峙している。素手ではない。二人ともトラへ向けて小銃を携行している。二人のうち階級が下の方の鬼ヶ島軍曹は三八式歩兵銃(さんぱちしきほへいじゅう)の照準をトラの体の中心から左前腕寄りへ合わせている。急所の心臓を一発で撃ち抜く準備は完了していた。彼は射撃の名手であり、狙った的は絶対に外さない。上官の発砲命令があれば、さしものトラも皮を残して死ぬ。  だが、上官の花村少尉は発砲を許可しなかった。銃声が周囲に響き渡るのを恐れたのだ。花村と鬼ヶ島は現在、敵地深くに侵入し偵察活動を行っている。警戒態勢を敷いている敵は突然の銃声を聞き「日本兵の襲撃だ!」と反撃に転じるだろう。  そうなれば、この土地を知らない二人は不利だった。二人を追撃するパルチザンは地形を知った地元住民であり、圧倒的に優位な立場だと分かっているので、その状況に陥るのは何としても避けたい――というのが花村の考えだった。  しかし、ここでいつまでもトラと睨み合っているわけにはいかない。  シベリア出兵中の日本軍第十二師団に所属する将兵二人は決断を迫られていた。  鬼ヶ島軍曹は、さっさとケリを付けたかった。タイガの中の獣道を進んでいたところで、人とトラはバッタリ出くわした。その距離は十数メートルといったところだろうか。トラが人に向かって飛びかかるには、やや遠い。一方、小銃の的としては、良い距離だ。仕留めるなら今だった。  ただし、外したら終わりだと鬼ヶ島軍曹は考えている。トラは一気に跳躍し、こちらをガブリとやるだろう。いや、危険は銃弾が外れたときだけに限らない。もしも、こちらに隙が生じたら、トラは仕掛けてくる。動くに動けない。  少尉殿は、どうなさるおつもりなのか……と隣を横目で見たら、花村少尉は三八式歩兵銃の先端に銃剣を取り付けていた。トラから視線を外さず、花村は命じる。 「決して発砲はするな。銃剣で殺す。俺が食われたら、お前は退却しろ」  鬼ヶ島軍曹は白目を剥いた。彼の上官は銃剣を装着した小銃でトラと戦うつもりだのだ。  確かに花村少尉は剣術の名人であり、特に銃剣道は達人の域にあるとの呼び声が高い。けれども、それは人間が相手の場合だ。ちなみに朝鮮出兵の際にトラを退治した加藤清正は、もっと長い槍を使った。  とてもではないが正気の沙汰とは思われない。しかし鬼ヶ島軍曹は知っている。彼の上官である花村少尉は、優男風の外見に似合わず、血気盛んな青年将校で、荒っぽいことが好みなのだ。  東京の近衛師団から小倉の第十二師団へ転任となった花村を、都会の華族出身のお坊ちゃん将校と侮った鬼ヶ島その他の兵隊らは、歓迎会で新任の上官に飲み比べを強要し酔い潰してやろうと目論んで返り討ちにあった。酔い潰されてヘロヘロになった彼らに花村は駆け足での競争を命じた。彼は自ら先頭に立って教練場を一周し、まっすぐ走れない部下の尻を叩いて回った。翌日は二日酔いの兵隊たちを相手に相撲を取って全員を放り投げた。何人か怪我人が出たため、花村は上官から秘かにお叱りを受けたと噂された。以来、花村を侮る将兵はいなくなった。それどころか、荒くれ男たちからの尊敬を集めるようになった。転校生の不良がいきなり番長に収まったようなものだろうか。  それはともかく、鬼ヶ島軍曹は囁いた。 「少尉殿、どうかお止め下さい。そして自分に発砲をご命じになって下さい。この距離なら絶対に外しません」  花村少尉は奥歯をギリリと噛みしめながら言った。 「お前の腕を信じていないわけじゃない。この近くにパルチザンの進発基地があるはずなのだ。そこにいる奴らに銃声を聞かれてしまったら、偵察活動を切り上げて退却することになる。場所を特定する前にだ! 任務を放棄して逃げ出すのは軍人の恥だ。俺は生き恥をさらしてまで生きたくない」  そんなことを言っている場合じゃないだろう……と思うが、人には人の事情というものがある。  華族の跡継ぎと、売られてきた侍女が恋に落ちた。周囲に引き離された二人は、駆け落ちを決め――たのだが、やはり引き離された。しかし、侍女の腹には既に跡継ぎの子供がいた。子供の父親である華族の跡継ぎは、無理やり送り出された留学先の欧州で病に罹り、早くに亡くなった。後継者を失くした華族の家は、元侍女が養っていた幼い男孫を引き取り、新たな跡継ぎとして育てることに決めた。それが花村少尉だ――という噂を鬼ヶ島軍曹は聞いたことがある。  もしも、それが事実だとしたら、華族という集団の中で花村は異物だった。周囲から卑しいものを見るような目で見られたことだろう。本人に聞いたことがないので事実かどうかは知らないけれど、そんな境遇であれば生き恥に関する意識の高さも頷ける。  だが、死んで花実が咲くものか、というのも事実だ。 「敵に銃声が聞かれるかどうかは分かりません。ですが、はっきり分かっていることがあります。やがて日が傾くでしょう。暗くなってしまったら、夜目が利かない我々が圧倒的に不利です。トラは夜陰に乗じて襲撃してくるでしょう」 「だから、ここで俺が仕留める」  着剣した三八式歩兵銃を構え、花村少尉が体を前に傾けた。  トラは花村少尉の殺意に明確な反応を示した。牙を剥き出して吼える。大地が震えるような喧しさだった。  正直、銃声よりも大音量だったかもしれない。そんな状況を鑑み、花村少尉は命じた。 「撃て」  鬼ヶ島軍曹が引き金を絞る直前、トラは身を翻してタイガの奥深くへと消えた。拍子抜けした彼が三八式歩兵銃を下ろした、そのときだった。 「★☆〇彡×!」  振り返ると猟銃やサーベルで武装したロシア人のパルチザン数十名が二人に迫っていた。トラは接近してきた猟師たちに気付いて、いち早く逃げ去ったのだ。  そのロシア人のパルチザンあるいは猟師たちは口々に何事かを叫んでいる。彼らが何と言っているのか、鬼ヶ島軍曹には分からない。  花村少尉はロシア語の読み書きが出来た。彼は鬼ヶ島軍曹に言った。 「武器を捨てて降伏しろと言っている」  鬼ヶ島軍曹は敵の様子を窺いながら尋ねた。 「どうします?」  降伏したなら、なぶり殺しになるかもしれなかった。シベリアに出兵した日本軍と、それを侵略者とみなすパルチザンは仁義なき戦いを繰り広げている。むざむざ殺されるのならば、大暴れして一人でも多く地獄へ道連れにしてやると鬼ヶ島軍曹は考えていた。  腰をゆっくりと屈め、銃剣を取り付けた三八式歩兵銃をシベリアの広大な大地に下ろして、花村少尉は言った。 「武器を捨てよう。潔く降伏するのだ」  鬼ヶ島軍曹は耳を疑った。 「投降するのは生き恥にならないのでしょうか?」 「敵の進発基地に連行されたら、その場所が分かるってものだ」 「そこで殺されるかもしれませんぜ」 「向こうも人間だ、そこまで鬼じゃないだろう」  三八式歩兵銃を足元に置いて、鬼ヶ島軍曹は思った――そうだといいけど。 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  かつて東アジアにはヨーロッパ風の街並みを持つ都会があって、そこで欧米人が本国と同じような暮らしを営んでいた。その代表格は中国南部の上海や香港それに中国東北部の大連(だいれん)哈爾浜(はるびん)である。我が国においては神戸の外国人居留地だろう。実質的な植民地である。  これらの土地は今日、本来の所有国に返還されている。  例外がある。極東ロシアにある港湾都市ウラジオストクだ。  十六世紀末から十七世紀に始まるシベリア進出によって、ロシア帝国は中国の清王朝から現在の沿海州と呼ばれるシベリア太平洋岸の地域を奪い取ることに成功した。やがて日本海に面した天然の良湾にロシア語で『東方を征服せよ』という威勢のいい名前の都市を建設する。  これがサンクト・ペテルブルグの始まりである。  悪い、間違えた、ウラジオストクだった。  とにかく現在もウラジオストクは東アジアにおける唯一のヨーロッパ風の――全ヨーロッパというより東ヨーロッパの中のロシア風の、というべきかもしれないが――都市であり続けている。  何となく、おしゃれなイメージが湧いてくることだろう。  しかしながら、この物語の頃つまりロシア革命後に勃発したロシア内戦と第一次世界大戦における連合国側によるシベリア出兵のダブルパンチを喰らっている時代のウラジオストクは惨憺たる有様だった。ロシア革命を支持する共産主義者の勢力と反革命の勢力である白軍が街の支配をめぐって激しく争っているところに日本・イギリス・フランス・イタリア・アメリカ・カナダ・中国の軍隊が侵攻してきたのである。共産主義革命の波及を恐れた諸外国が革命を封じ込めるため、革命軍と戦う反革命軍を支援することが侵攻の目的だった。  戦場となった都市に、おしゃれの花は咲かない。むしろ華やかではない方が望ましかった。変に目立ったら危険である。革命側であれ反革命の者であれ、気が立っている奴らしかいない。そんなのから怪しい奴だと思われでもしたら、銃撃されかねないのだ。  そんな状況だったので、モガに憧れ田舎から出てきた少女アーニャは落胆した。モガなんて、どこにもいやしないではないか! これならタイガの中にある故郷の寒村と変わりない。わざわざ出てくるまでもなかった……とは思うけれど、田舎に帰ろうとは考えない。戻りたくても、もう戻れないのだ。彼女の生まれ育った小村はパルチザンを支援する革命側とみなされてしまい、反革命の白軍と日本軍の共同作戦で焼き討ちされた。そこに帰ったところで、暮らしてはいけない。  さりとて、知っている人が誰もいないウラジオストクで、どうやって暮らしていったらよいのだろう? 現在のところ、キリスト教プロテスタントの慈善団体が用意してくれた元は安宿で今は半ば崩れかけた宿舎で難民生活を送っているが、ずっとこのままというわけにもいかないだろう。さて、どうしたものか?  そんなとき、アーニャが暮らしている町に一人の外国人女性が現れた。裾が膝までしか届かないストレートの赤いドレス、栗色の髪は快活に見えるショート・ヘアに切り揃えられ、真っ赤な口紅とアイシャドーでメイクはバッチリ、その足元は光の加減で紫にも赤にも見える不思議な色合いのハイヒールで決まっている。彼女はアーニャたち難民が生活する宿舎を訪れ、慈善団体の者と何事かを話し合っていた。その間も、これがモダンガールというものだ! と、戦火で焼き出された哀れなロシア人少女に見せつけている。  何者なのだ、あの女性は!  アーニャは慈善団体の修道女に尋ねた。 「シスター、あの女性は誰なのでしょうか?」  その修道女は手で十字を切ってから言った。 「神の教えに反する罪深い女です」  その表情は硬く、アーニャ憧れのモダンガールに対する嫌悪感が根深いものであることが察せられた。  そうなると、それ以上のことは聞きにくい。  こうなったら、出たとこ勝負だ! そんな破れかぶれの思いで、アーニャは素敵なモガの近くへ走った。  目の前に現れた黒髪の難民少女へモダンガールは愛らしい笑顔を見せた。 「ハーイ、可愛らしいお嬢さん。私に一体、何の御用かしら?」  アーニャは言った。 「突然ですけど、私を弟子にして下さい! お願いします!」 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  日本軍によって住み慣れた村を破壊されたシベリアのロシア人たちの憎しみは強かった。彼らは捕虜となった花村少尉と鬼ヶ島軍曹を直ちに処刑するよう主張した。しかし、共産党本部が派遣した赤軍の将校が待ったをかけた。これらの日本人には利用価値があるというのである。  そういった事情を花村少尉は赤軍の将校から聞いた。  軍事情報を聞き出そうというのか、と花村少尉は思った。そうだとしても、そう簡単には話さないぞ! と彼は心に決めた。自分は軍事機密をペラペラ喋るような人間ではないのだ。もしも拷問にかけられて自白を強要されたら、舌を噛んで自決してやる! そんな意気込みで赤軍の将校と相対する。  尋問は村落の家屋で行われた。  赤軍の将校は、かつて自分はロシア帝国陸軍の将校として日露戦争に従軍した、と話し始めた。 「遼陽会戦と奉天会戦に参戦したよ。どちらとも、日本陸軍にやられた。惨敗だったね。あのときはね」  任官したての花村少尉は日露戦争に従軍していない。このシベリア出兵が初陣だった。ちなみに同期の将校たちは第一次世界大戦――この頃ならば『第一次』の表記が付いていないのが正しいだろう――に従軍している。中国の山東半島にあるドイツ領の青島(ちんたお)攻略戦である。  その青島の戦いを、赤軍の将校は絶賛した。 「大砲を上手く活用した。火力の集中こそ、近代戦の最重要点であり、勝利の鉄則だからね。航空機の運用も素晴らしかった。現代の戦争は航空機なくしては考えられない。今後は大空を制する者が地上を制し、そして戦争に勝利するだろうね」  ロシア人将校の話を聞いていた花村少尉は、自分のロシア語の聞き取りが正しいのか、自信を持てなくなってきた。相手の会話の意図がつかめないためである。何か自分がまったく見当違いの話を聞き取ってしまっているのではあるまいか? と不安になってきた彼は、逆に質問してみた。 「日露戦争の遼陽会戦と奉天会戦それから青島の戦いで日本軍がよくやった、という貴殿の発言を、自分は理解したと思う。しかし、その趣旨が理解できない」 「だからどうした? と言いたいわけだね。不思議なんだよ。そう、僕は不思議に感じているんだよ」  ロシア革命への干渉戦争を開始した日本は、間もなく大苦戦をする事態に陥った。シベリアに出兵したまでは良かったが、広大なシベリアを占領できずにいる。シベリア鉄道の沿線沿いを確保するのが精いっぱいなのだ。それもパルチザンにやられている。神出鬼没のゲリラ戦を仕掛けるにパルチザンに翻弄され、てんてこ舞いだった。そこでパルチザンの根拠地を叩き潰そうとして、シベリア各地のロシア人村落を破壊し、そこに暮らしていたロシア人の恨みを買って、パルチザンの味方を増やしてしまうという悪循環が続いている。 「君たちのような偵察の兵士を四方八方に派遣するより航空機や飛行船を偵察飛行に送り出すべきだよ。この辺に暮らしているロシア人の農民や猟師が、お空飛ぶ機械を見たことがあると思うかい? あるわけないって! そんな連中の頭の上を飛行機が飛び回ったら、腰を抜かす。怖くなるよ。日本軍に逆らったって勝ち目はないと思うだろうさ。そういった、科学の力を使った戦いをするべきだ」  赤軍将校の男は、さらに日本軍へのアドバイスを続けた。 「科学の力といえば、重要なのが化学兵器だ。ヨーロッパの戦場では毒ガスが実用化された。化学的に合成された殺人ガスが兵器として実践投入されたんだ。ここにおいて人類は、火薬に続く強力な武器を手に入れたと言っていいだろう。この兵器も、シベリア戦線では重要な意味を持つ。ヨーロッパの戦いでは、化学兵器を使用すると、相手側も化学兵器で報復してくる恐れがある。そのうちガスマスクが兵隊の標準装備になるね。真夏だと、それだけで死にそうになる。でも、死にたくないから防毒マスクを装着して戦う。相手にも毒ガスを製造する科学力や技術力があるからだ。ただし、ここシベリアなら別だ。工場なんてほとんどない。労働者がいるにしても、勤めているのは製材所だ。シベリアなら相手からの報復を恐れず化学兵器を使える。毒ガスを大量生産できるようになれば、砲弾を撃ち込むより安上がりに敵を滅ぼせるようになるだろう」  花村少尉は神妙な表情で頷いた。 「ご高説は承った。原隊に帰還したら、部隊長に上申しよう……ところで、自分らは帰してもらえるのかな。それとも、このままシベリアの土になるのかな?」 「それは君たち次第だ」 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  ロシア人少女アーニャが憧れる外国人のモダンガールは、ポメラ・リー・アンダーソンという名のジャーナリストだった。アメリカ人の母親とイギリス人の資産家の父親の間に生まれ、今は世界を股にかけて活躍しているという。  その話を聞いただけでアーニャは興奮した。これだよ、これがモダンガールだよ! と思う。 「やっぱり、弟子入りしたいです。どうか弟子にして下さい!」  アーニャは土下座せんばかりに懇願したが、モダンガールのポメラ・リー・アンダーソンは首を縦に振らなかった。 「私は人様の師匠になれるような人間じゃないわ。そんなの無理よ」 「そこを何とか!」  これはもう、必死である。アーニャにしてみれば、ただモダンガールになりたい! というだけではない。資産家のご令嬢であらせられるポメラ・リー・アンダーソンの付き人にでもなって、自分の生活を確立したいのだ。こんなチャンスが訪れるなんて、この先きっとない。そう確信しているから、もう何でもやる覚悟ができている。 「私、何だってやります。命がけでやります!」 「でも、ここにはロシア内戦の取材に来ているだけで、弟子とか何とか全然考えられないわ」 「どうか私を助けて下さいませ!」 「そう言われても、ねえ……ああ、そうだわ」  周囲の様子を窺って、誰も自分たちに注意を払っていないことを確認してから、ポメラ・リー・アンダーソンは声を潜めて尋ねた。 「ねえ……あなた、名前は何と言ったかしら?」 「アーニャです。でも、ポメラさんの好きな名前で読んで下さって構いません」 「アーニャで良いわ。だって、素敵な名前ですもの」 「ありがとうございます」 「それでね、アーニャ。あなたに頼みがあるの」 「どんな頼み事だって承ります。私、何だってやります!」 「お願いというのはね、アーニャ。革命側の人間に取材したいんだけど、あなたはパルチザンの知り合いがいないかしら? もしもいたら、会わせて欲しいの」  パルチザンの知り合いがいないわけではない。彼女の生まれ故郷の村の住人で、日本軍の襲撃を生き延びた者は漏れなくパルチザンになった。しかし、その居場所は分からない。シベリアの原野にいるのは確実だが、もしかしたら土の下にいるかも、である。 「知人がパルチザンです。その数は、それなりですけど、でも、会いたくても場所が分かりません」  アーニャは事情を伝えた。ポメラ・リー・アンダーソンは納得の表情を浮かべた。 「それじゃ、アーニャ。探しに行きましょうよ」 「はい?」 「あなたの知り合いのパルチザンを探しに」 「どこにですか?」 「シベリアよ」 「このウラジオストクもシベリアなんですけど」 「もっと奥地にまで向かいましょう」  モダンガールのポメラ・リー・アンダーソンお嬢様は、反革命の白軍と日本軍の合同部隊が革命側のパルチザンと凄惨な殺し合いを四六時中やっているシベリアの最前線へ行こうというのだ。  それでは命が幾つあっても足りない。  アーニャは説得を試みた。  ウラジオストクは連合国側の派遣部隊が駐留しているので、一応の治安は保たれている。それでも革命側のテロ行為と、反革命側の反テロ活動で、流血は日常茶飯事なのだが、それにしたって他の場所よりはマシだ。 「ポメラさん、どうか考え直してはいただけないでしょうか? あまりにも危険です」  ポメラ・リー・アンダーソンはアーニャを真正面から見つめて言った。 「よく聞いてね、アーニャ」  モダンガールとは、短いドレスや断髪といったファッションだけで語られるものではない、とポメラ・リー・アンダーソンは言い切った。見てくれは、その内面がもたらした結果に過ぎない。肝心なのは中身である。 「行動なの。モガにとって、本当に大切なのは行動であり、行動力こそが新時代の女性に必要なものなの。それがない女は、モガじゃない。そんな女はモダンガールを名乗ってはいけないの」  ファッションはモダンガールの本質ではない、とポメラ・リー・アンダーソンは語っていた。アーニャは唇を噛みしめ、それから口を開いた。 「これは、秘密なのですが」  ポメラ・リー・アンダーソンは無言で頷き、先を促した。アーニャは言った。 「パルチザンのシンパが経営している店があります。そこへ行けば話が聞けると思います」 「今からでも行けるかしら?」  この人と一緒にいるつもりなら、この行動力に慣れなければいけないのだとアーニャは決意した。 「行けます」 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  鬼ヶ島軍曹は出された食事の麦の粥の汁をゴクゴク飲み干して「美味い」と満足気に言った。この男は基本的に何を食べても美味しく感じるようにできていた。  花村少尉は華族なだけあって、舌の方が肥えていたが、今は虜囚の身の上である。あてがわれた食事に文句を言ったところで仕方がない。「じゃあ食うな」と言われ食事を出されず餓死したら、故国日本へ帰る夢は潰えてしまう。絶対に日本へ戻ると決めている彼もまた、薄い麦粥を全部食べた。これが旨いとはまったく思えなかったが。  監禁されている住居の土間に敷いた茣蓙に座り、二人は自分たちの置かれた状況を話し合った。 「赤軍の将校は、自分たちに協力するなら、俺たちを解放すると言っている」  花村少尉の言葉を聞いて、鬼ヶ島軍曹が質問する。 「俺たちに間諜になれと言っているんですか?」  間諜とはスパイを意味する。だが、一般的な意味での、情報を漏洩するようなスパイは意味していない、といった趣旨の言葉を述べてから、花村少尉が説明した。 「共産主義者となって自分たちと一緒に世界革命を目指そう! ということらしい」 「共産主義者となって自分たちと一緒に世界革命を目指そう! ですか」 「ああ、そう言うことらしい」  そう言われても鬼ヶ島軍曹には何が何だかサッパリ分からない。共産主義というものが何なのか実は知らないし、世界革命を目指すも何も世界革命とは何なのか、それが分からない。  ついでに言うと、自分たち日本兵がどうしてロシア人のパルチザンと戦っているのか、それも分からない。日本への共産主義革命の波及を防ぐための干渉戦争だ! と説明されたが共産主義革命が何なのか分からないので、何のために戦っているのか実感として理解できないのである。  これは鬼ヶ島軍曹だけでなく、他の兵隊にも共通した感覚だった。  命の危険にさらされてまで自分たちが戦う意義を見出せないことは、士気の低下につながっていた。  共産主義者は体制転覆を企んでいるから滅ぼさねばならない! と言われたら、そうか! と思う。だが、天皇の名を借りて政権を(ほしいまま)にする政治家や私腹を肥やす商人を守るために自分たちが矢玉をかいくぐるのは違うと感じる。そんな奴らのために自分たち貧乏な平民が死ぬとしたら、それは間違いだ。無学な鬼ヶ島軍曹といえど、それは分かる理屈だった。  それはそうなのだけれども、共産主義者になって世界革命を目指すと言われても、ピンとこない。  鬼ヶ島軍曹は、そんな感想を述べた。花村少尉は言った。 「ロシア革命は成功するかもしれない。だが、世界革命は無理だろう」  花村少尉は、その根拠を述べた。 「モスクワやペテルブルグは既に革命軍の制圧下にある。ロシアのヨーロッパ部分は革命派が抑えたんだ。ロシア経済の中心を支配下に置いた革命勢力の勝利でロシア革命は決着する公算が大だ。もう日本以外の外国軍は撤兵の準備を始めている」  だが、それは共産主義に諸外国が屈服したことを意味するのではない。逆だ。 「世界大戦で疲弊した各国は体勢を立て直す必要がある。ロシア内戦に関わり合っている場合じゃない。このままだと自国の共産主義者が革命を起こしかねないからな。そいつらを叩きのめすために、弱体化した自国の軍隊を鍛え直すのだ」  ロシア革命は、ロシア帝国が世界大戦で事実上の敗北を喫したために起きた、とも花村少尉は言った。 「戦争に負けて経済が破綻したから帝政ロシアは滅亡したんだ。大戦に勝利した側の国々では革命なんか起こらないよ」  ロシア革命から百年も経たずして資本主義諸国との経済戦争に敗れたソビエト連邦は崩壊した……が、それはこの際どうでもいい。 「だから日本を含む世界各国で共産主義革命は起こらない、と断言したいところだが……このままだと、どうかなあ、と俺は疑念を抱くのさ」  花村少尉が危惧するのは、日本だった。 「このシベリア出兵の失敗だよ! これが不安の種なんだ」  多額の戦費を費やしても勝利の道筋が見えてこないシベリア出兵に、社会の各層から不安の声が漏れ始めていた。米価の上昇は庶民の食卓を直撃し、家計を預かる主婦の間にも戦争への不満が囁かれている。 「大日本帝国軍人として戦争勝利を目指すのが当然だ。そのために俺は、こうして危険な偵察任務に精を出してきた。その思いは変わらない。だが、勝つ見込みのない戦争しかも領土を取れるか分からない干渉戦争をいつまでも続けるのは愚かしい。それよりは、シベリアでの戦いで判明した日本軍の弱点を修正し、もっと強力な軍隊に再編成することが大切だ。共産主義国家として生まれ変わったロシアとの戦いに勝利するために……ここは潔く撤兵するんだ」  鬼ヶ島軍曹は、花村少尉の話を完全に理解できたわけではない。それでも尊敬する上官の心に浮かぶ考えは分かる。 「少尉殿は、この戦争に日本が負けるとお考えなのですね」  深い溜め息を吐いてから花村少尉は答えた。 「負ける。俺は、そう思っている」 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  シベリア鉄道の建設はロシア独力で成し遂げられたのではない。その巨額な建設費用は世界各国の資本が投入されている。シベリア鉄道沿線の開発にも資本が投下された。いうなれば各国の利権がシベリアの大地に存在していたのである。  シベリア鉄道の終着駅の一つであるウラジオストクには、そういった国々の領事館が立てられていた。そして、そういった国々の人間が生活していた。  アーニャがポメラ・リー・アンダーソンを連れて行ったのは、そういった国の資本家が経営している店だった。  ポメラ・リー・アンダーソンは疑問を口にした。 「資本家階級の人間がパルチザンのシンパなの? 革命が成功したら、自分たちが出資して手に入れた利権が革命政権に奪われるんじゃないかしら?」  アーニャが答える。 「そういった財産の一切合切が革命政権に奪われないよう、裏で手をつないでおこうと考える連中がいるわけですよ」  革命政権の側も諸外国の協力が必要になる。やがて内戦は終わるだろう。そうなったら次は荒れ果てたロシアの大地を復興させなければならない。その資金は、どこにあるのか? 豊かな大地で収穫される農産物を輸出して金を稼ぐ、あるいは鉱物資源や水産物を売って銭を儲けるにしても、売る相手が要る。金を持っている外国の金持ちとの商取引が必要不可欠なのだ。 「ですけどね、ポメラさん。こういった連中に深入りは禁物です」  革命側と反革命の側の両方に良い顔をしようとするのは、逆に危険だった。どちらの陣営からとっても裏切者となりえるからだ。  取材のために深く関わろうとすればポメラ・リー・アンダーソンにも危険が及ぶだろうとアーニャは警告した。望むところだとポメラは答えた。  店の前に立ったポメラが中へ入ろうとするのを、アーニャが止める。 「待って下さい」 「何?」 「まず私が中へ入って、取材して良いかどうかを聞いてきます。それで、もし駄目だったら諦めて下さい」 「取材拒否の店があるのかい!」  店に入ったアーニャが、しばらくすると戻ってきた。 「どうだった?」 「ごめんなさい、駄目でした」 「駄目なのかよ! ここは取材拒否の店なのかよ!」 「ですがポメラさん。ご安心下さい。パルチザンの進発基地に関する情報を入手してきました」 「おお、でかしましたぞよ!」 「ポメラさん、そのロシア語、変ですよ」 「ロシア語は難しいですね……それはともかく、その場所へ行きましょう。すぐに行けるところなの?」 「シベリア鉄道の旅になります」 「汽車の旅なのね。凄く楽しみよ!」 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § 「自分は少尉殿に付いて行きます」  鬼ヶ島軍曹は力強く、そう言った。言われた花村少尉は迷っていた。赤軍の将校の言う通り、共産主義者となって世界革命を目指す気になれない。だが、協力を拒否して処刑されるのはまっぴらごめんである。嘘をついて逃げ出せば良い、という考え方は不思議なことに頭に湧いてこない。敵に対しても誠実な人間なのだ。  そういった馬鹿正直さが、鬼ヶ島軍曹には歯痒くなる。とはいえ、そんな人間だからこそ信用できるとも言える。 「鬼ヶ島、俺は決めたよ」 「そうですか、少尉殿。で、どっちになりました?」 「お前は原隊に復帰しろ」 「分かりました。それで、少尉殿は?」 「俺は日本を裏切れない。それに虜囚の辱めを受けたからには、故国へ戻るのは恥だ。だから、ここで銃殺される」 「ちょ、ちょ、ちょま、ねえ少尉殿、ちょっと待って下さいよ!」 「もう決めたんだ。さようなら鬼ヶ島」 「いえいえ、いやいや、ねえ少尉殿、考え直して下さいってば!」 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  楽しみにしていたシベリア鉄道の旅が思ったよりも早く終わったので、ポメラ・リー・アンダーソンは若干ではあるけれど失望したようである。停車場の近くの集落で馬車の手配を済ませたアーニャが戻ってくると「帰りの切符なんだけど、もっと遠回りして帰ることにしましょうよ。バイカル湖を観光して、満州へ行って」と呑気なことをのたまった。 「戦争の真っ最中ですから寄り道は危ないです。早く目的地へ行きましょう」  シベリアの農夫が御者の馬車に乗って二人は進んだ。やがてパルチザンの進発基地に到着する。何のことはない、普通の村落である。パルチザンも普通のロシア人である。至って普通の農民や猟師や木こりや毛皮業者などの一般人が職業軍人の集まりである日本軍を悩ましているのだから、戦争とは不思議なものだ。  ポメラ・リー・アンダーソンはパルチザンたちにインタビューした。それから赤軍の将校を名乗る男性とも話をした。  ロシア革命を引き起こした共産党の軍隊に所属する将校がシベリアにいることはオフレコにして欲しい、と男は要求した。日本軍その他のシベリアへ出兵した多国籍軍との全面対決をロシア共産党は望んでいなかったためである。白軍や日本軍と戦っているのは、あくまでも反革命勢力や侵略者に対し自主的に立ち上がったパルチザンであって、ロシア共産党と赤軍ではないのだ。  その要求をポメラ・リー・アンダーソンは受け入れた。そして、その代わりと言っては何だが、別の人物へのインタビューを赤軍の将校に頼み込んだ。  パルチザンたちに料理を作って食べさせている青年が進発基地にいるのだが、その人物の着ている服が、どう見ても日本軍の軍服なのだ。最初は日本兵の死体から軍服を引き剥がして着用しているかと思われた。しかし、顔はロシア人ではなく、アジア系のものである。シベリアの原住民だろうか? とポメラ・リー・アンダーソンは考えた。そうだとしたら、それがどうして日本軍の軍服を着ているのだろう? やはり死んだ日本兵の軍服を脱がして着ているのだろうか?  そういったところを聞いてみたくてインタビューを申し込んだのだが、赤軍の将校に断られた。 「シベリアは取材拒否する人間が多い土地なのですね。シベリア人はマスコミ嫌いが普通なのでしょうか?」  厭味ったらしく言うと赤軍の将校に笑われた。 「あの男はシベリア人じゃありませんよ。日本人の陸軍将校です」  ポメラ・リー・アンダーソンは目を丸くした。 「純粋な日本人ですか! それが、どうしてここに?」 「我々の捕虜になったのです。解放してやろうとしたのですが、虜囚の辱めを受けたからには祖国へ戻れない、とか何とか申しまして」 「それで、どうしてコックのように皆に食事を作ってあげているのですか?」  赤軍の将校はポメラ・リー・アンダーソンを食事に誘った。 「彼の作る料理を一緒に食べてみませんか?」  用意された食卓に着いたポメラ・リー・アンダーソンに、日本軍の陸軍将校の制服を着た青年が食事を出した。なんてことのない麦の粥である。金持ちの娘である彼女にとっては、ありがたくも何ともないメニューだ。  しかし、スプーンで一口すくって食べると、その美味しさに驚かざるを得なかった。全身に衝撃が走る。 「なに! なんなの! これ、なんなの? ねえ、何なのよーッ!」  赤軍将校は日本陸軍の軍服を着た青年に説明を促した。その青年はロシア語で言った。 「良い食材、良い水、良い塩、そして真心、ついでに最後に藁をひとつかみ。これらが麦粥を美味なるものにする秘訣です」  その傍らで赤軍将校が笑った。 「同じことを我々がやっても、同じ美味しさにはならないのです。手順は同じなのですよ。何が違うのか分かりませんが、味は比べ物になりませんよ」 「何かが違うとしたら、それは感謝の心でしょう。処刑されるはずだった私ですが、この赤軍将校が中止してくれたことで、救われた。その恩を少しでも返すことができたらと思い、こうして日々の料理を真心を込めて作らせていただいています」  思わず唸ったポメラ・リー・アンダーソンの横に座るアーニャは、それほど美味い麦粥だと思われず、残そうかどうしようかと考えたが、雰囲気的に残すのが難しかったので、残らず食べた。その間にも話が進んでいる。 「日本陸軍の青年将校であるあなたは、どうして敵中に残ることにしたのですか?」  ポメラ・リー・アンダーソンの質問に花村少尉は答えた。 「理由は色々あります。その一つが共産主義の調査です」 「共産主義の調査とは?」 「私はパルチザンの進発基地を探す偵察活動中に捕らえられました。任務に失敗したわけです。これは私にとって耐えられない恥辱でした。生きて祖国へは帰れません。死ぬしかないのです。しかし、考えを改めました」 「と言うと?」 「共産主義者の中で生活することで、共産主義を学ぼうと考えたのです。パルチザンから共産主義を教わるのです。それは、いずれ私が日本へ帰ったときに役立つことでしょう」 「あなたは日本へ帰る意思があるのですか?」  花村少尉は頷いた。 「いずれ帰ります。部下と共に」  ポメラ・リー・アンダーソンは聞き返した。 「部下と共に、とのことですが、部下の方がここにいらっしゃいますの?」 「今は出かけています。ですが、そろそろ戻ると思いますよ」  その言葉に嘘はなかった。歓声と共に三八式歩兵銃を下げた鬼ヶ島軍曹が現れる。彼の後ろにパルチザン十数人の姿があった。手足を縛られた巨大なシベリアトラが棒を吊り下げられて運び込まれた。この物語の冒頭で、花村少尉と鬼ヶ島軍曹が対決したトラである。  鬼ヶ島軍曹は言った。 「ここいらの住民を殺しては食っていた人食いトラです。ちょっと時間は掛かりましたけど、無事に仕留めて参りました」  花村少尉は鬼ヶ島軍曹に「ご苦労」と一言だけ言って労をねぎらい、それから赤軍将校へ言った。 「前に申し上げた通り、我々は貴君のご希望に添えない。命を助けてもらっておきながら、そんな返事しかできないことを、誠に申し訳なく思っている。そのお詫びと申しては恐縮だが、私の料理と、この鬼ヶ島軍曹が仕留めた人食いトラの皮で、どうか許してもらえないだろうか?」  後にノモンハンの荒野で日本軍を、そしてロシアの大地でナチスドイツの軍隊を敗走させる名将ジューコフは、まだ若々しい顔を綻ばせた。 「分かりました。お二人を解放しましょう」  それからジューコフはポメラ・リー・アンダーソンに二人を連れ帰ってくれるようお願いした。彼女が承諾すると、彼はパルチザンに出発を命じた。進発基地を変更するのである。所在地を知る捕虜を解放しただけでなく、ジャーナリストにまで位置を知られた村落に留まっているわけにはいかないのだ。人食いトラが消えて安全となったタイガの大森林に赤い兵士たちは姿を消した。 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  日本軍のシベリア出兵は1918(大正七)年のウラジオストク上陸から1925(大正十四)年の北サハリン撤退まで七年の長きにわたって続けられた。この出兵で日本軍は約3500名の死傷者を出し、(筆者注:当時の金額で)10億円に上る軍事費を浪費し、それでいて何の利益も得なかった。コストパフォーマンスにおいてもタイムパフォーマンスの面でも、見るべきもののない不毛な戦争と言えよう。  しかし、その戦いで人生の成功の糸口をつかんだ人間がいるのも事実である。たとえばアーニャ。彼女が、その中の一人だろう。ポメラ・リー・アンダーソンの下でモダンガールの何たるかを学んだ彼女はファッション・ビジネスの分野で成功した。彼女は世界各地に店を構えるデザイナーとなり、今このときも文字通り世界中を飛び回っているわけだが、その合間を縫って頻繁に訪れる場所がある。彼女の師匠であるポメラと鬼ヶ島軍曹が一緒に暮らす屋敷のある哈爾浜(はるびん)だ。  そこにお邪魔して、アーニャは花村少尉について尋ねるのが常である。日本軍を除隊したので元軍曹となった鬼ヶ島は、かつての上官の現在を良く知っていた。二階級昇進して大尉となった花村は、満州に駐留する日本陸軍の一部隊である関東軍(かんとうぐん)の配属になっていた。  鬼ヶ島は語った。 「大尉殿はお忙しいよ。色々な作戦の策定に当たっているようだ」  かく言う鬼ヶ島も、忙しい。関東軍の監督下に創設された秘密機関である特務機関の非合法員として様々な謀略工作に従事しているためだ。 「花村さんは一体、どんなことをなさっているのかしら?」  花村に異性としての興味を抱いているアーニャは、それを知りたがった。  しかし、それは軍事機密なので、花村は誰にも教えない。仮に知っていたとしても鬼ヶ島はアーニャに教えなかっただろう。彼女を信用していないわけではないが、情報がどこでどう漏れるか、知れたものではないからだ。  だからアーニャは何も知らない……ふりをしている。  実際は、ある程度の事実を知っているのだ。  大正デモクラシー以降、民衆の冷たい視線に煩悶した青年将校の一部が、ある考えに憑りつかれた。国家総動員体制とか国体改革や国家改造といった、一種の革命思想である。そういった青年将校たちが、やがてとんでもない事件を起こしていくこととなる。1932(昭和七)年5月15日の五・一五事件、そして1936(昭和十一)年2月26日の二・二六事件などが、それである。  ただし、これらは昭和の話だ。  大正年間に、青年将校たちが何を考えていたのかというと、失敗に終わったシベリア出兵の反省だった。  その大反省会の全貌は記録に残っていない。だが、後の行動から推測は可能だ。  反省点、その一。シベリア全土を支配するだけの国力を日本が持っていなかった。だから日本は国力の増強に勤めなければならない。  反省点、その二。日本は満州に勢力圏を確保したが、完全に支配したわけではない。この地を完全な支配下に収め開発し、巨大な軍事基地に仕立て上げる。来るべき第二次シベリア出兵においては、満州が日本軍の進発基地となり、ここからシベリア全土を攻略していくのである。  これらの反省に基づいて、日本軍は満州支配計画を策定していく。  その先陣を切るのが、花村大尉の所属する関東軍だった。  花村大尉に愛情を抱きつつも、共産主義国家であるソビエト連邦に情報を流す国際スパイ団のリーダーでもあるアーニャは、愛した男の仕事に強い関心があった。  現在も国際的なジャーナリストとして活躍するポメラ・リー・アンダーソンは、自分の弟子であるアーニャが秘かにどんな仕事をやっているのか、薄々は気付いていながら、何も言わない。  ポメラ・リー・アンダーソンもまた、英米のスパイとして働いているので、同じ穴の狢なのだ。  時は1926(大正十五)年、大正の終わりが迫っている。 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  満州を日本の完全支配領域とするために、自分は何をなすべきか?  花村大尉は今、そのことで頭がいっぱいだ。  だからアーニャからのデートのお誘いを受けても、心ここにあらずの状態である。ロシアの影響を色濃く受けた建築物の立ち並ぶ哈爾浜(はるびん)の街を難しい表情で歩く。その隣を歩くモダンガールのアーニャは、当然ながら面白くない。 「せっかくのデートなんですから、もっと嬉しそうにして」  そう言われても、花村大尉としてはいかんともしがたい。  アーニャのことが嫌いではないのだが……正直に言うと、彼女との交際は好ましいものではない。  大日本帝国軍人である花村大尉が外国人女性であるアーニャと付き合うことは防蝶の面で不適切だった。彼は立身出世に強い興味のない人間だったが、アーニャが近くにいることは今後の職歴に悪い影響をもたらすことになる。日本を強国にするという彼の一大目標が達成できない地位に左遷されたら、本当に悲しい。しかし、だからといって彼女に別れを告げるのは、彼の良心が痛むのである。  花村大尉は恋人と一緒にいて、楽しいのか悲しいのか自分でも分からなくなってきた。これならば、アーニャと距離を置いた方が良さそうである。彼は思い切って、そのことを口にした。  アーニャは、あっさりと了承した。 「私と付き合っていても、あなたが楽しくないってことは感じていたわ。さようなら」  え、そんなあっさり去っていくの? と思わなくもない。ヨーロッパ風の街路を歩き次第に遠ざかっていくアーニャを目で追いかけながら、花村大尉は決意した。  仕事に集中だ、と。 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  仕事といっても、ろくなことではない。  花村大尉は今、鬼ヶ島元軍曹と満州におけるアヘン生産と諸外国への密輸について検討中である。  アヘンとは麻薬のことである。関東軍は芥子(けし)の実から精製されるアヘンを満州国内で独占的に取り扱い、これを近隣諸国に売り払って儲けようと画策していた。  狙うのは中国本土、そしてシベリア、それから欧米各国である。  やっていることは暴力団と変わりない。しかし自分たちには大義がある。日本を強国に成長させるのだ、という大義が!  とまあ、そのはずだったが、それは違うという感じもある。  これではアヘン戦争の頃のイギリスと同じだった。当時の中国を支配していた清王朝に麻薬を売りつけようとしてイギリスは戦争を引き起こした。それが恥ずべきことであるというセンスは、その頃のイギリス人にもあったようで、宣戦布告を決定する議決は極めて僅差で可決されたと伝えられている。  そのときのイギリス国会議員と似たような心境に、鬼ヶ島元軍曹はなっていた。彼は言った。 「大尉殿、アヘン密造と密売の件ですが、これは停止した方がよろしいのではないですか?」  そこに正義はない、というのが鬼ヶ島の言い分である。 「道義に外れたことをする国家は、他国からの信頼を得られません。いえ、そればかりではないでしょう。自国民からも信用されないようになります。それが国家として正しい在り方でしょうか? 私は違うと思います」  ずいぶんと偉そうなことを言うようになったものだ、と花村大尉は思った。 「なるほど、確かにそれが正論だろうな」 「それでしたら、アヘンとは金輪際、手を切りましょう!」 「それは難しい」  アヘンがなくてはならない中毒患者がウジャウジャいるのである。そんな彼らは、アヘンがなければ生きていけない。 「アヘン中毒者が、アヘン中毒症状を起こして、死んでしまうのだ。それを黙って見過ごすことができようか? いや、できまい。できるはずがない。苦しむアヘン中毒者にアヘンを与え苦しみを癒し救ってやることも、人の道だ。それを間違っているとお前は言うかもしれないが、それもまた人倫なのだ」  何となく詭弁を弄され本論をずらされている感じが、鬼ヶ島はした。  アヘン中毒者の苦しいを和らげるためとはいえ、アヘンを供給し続ける限り、新規のアヘン中毒者が生まれる可能性が残る。全面的な禁止こそ、アヘンの悲劇を根絶する道なのではないか? と鬼ヶ島は考えるのだ。  そう主張すると「それは道理ではあるけれど、現実的には正しくない」と花村大尉が答える。 「我々がアヘンを全面的に禁止したとする。そうすると別の国家が我々の勢力圏内にアヘンを輸入しようとするだろう。我々は取り締まりを厳しくする。そうなるとアヘンの輸入を試みる国家は密輸を企むか、または逆に、堂々と輸入拡大を要求する。アヘン戦争と同じだ。愚かしい戦争が、また繰り返されるのだ」  その話を聞いていると、鬼ヶ島元軍曹は自分のやっていることが正しいことをしているような気持ちになった。関東軍の監督下に創設された秘密機関である特務機関の非合法員として様々な謀略工作に従事する彼は、新たにアヘンに関する事業を任されたわけだが、上述したように必ずも納得しきって仕事をしているわけではなかった。  それでも仕事はこなす。  それもこれも花村大尉に対する忠誠心のゆえである。  それでも、そんな強い忠誠心の対象である花村大尉が、何を考えているのか分からないときが鬼ヶ島元軍曹にはある。  たとえば関東軍に配属された花村大尉が、鬼ヶ島に対し軍隊を辞め特務機関という謎めいた組織の一員となるよう勧めてきたときだ。  花村大尉は関東軍の下に作られた特務機関が満州の、そして日本の死命を決するとまで言った。  大袈裟な……と思わなくもない話だが、後に関東軍の行った謀略活動を考えてみれば、その通りになった。 1928(昭和三)年、関東軍と対立した満州の中国人実力者、張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件 1931(昭和六)年、満州事変を引き起こし満州国を建国 1937(昭和十二)年、盧溝橋(ろこうきょう)事件、日中戦争勃発 1941(昭和十六)年、真珠湾攻撃、太平洋戦争勃発 1945(昭和二十)年、日本無条件降伏、大日本帝国滅亡  失礼、1937(昭和十二)年の盧溝橋事件は関東軍というより北京(ぺきん)近郊の盧溝橋に駐屯していた日本軍の中国派遣軍が関係していた。  また、1941(昭和十六)年のパールハーバー奇襲も、関東軍ではなく日本海軍によるものだ。  そして1945(昭和二十)年の日本無条件降伏は関東軍がどうしたこうしたといった段階を通り過ぎ日本全体の破局となった。  そう考えると関東軍がどうのこうのという局面は1931(昭和六)年の満州事変と満州国建国で終わっているような気がする。  超適当な私見を、以下に綴ってみる。  昭和に入ってからの軍部の暴走は、1927(昭和二)年の金融恐慌に始まった昭和恐慌による経済不安の打開が目的だった、という説は、分かるといえば分かるし、納得もできる。  それだけではないような感じがしている。  満州国建国の頃までは、大正浪漫の香りっぽいものを、まだ嗅ぎ取れるように思えるからだ。  その建国理念である五族協和(漢民族、満州族、蒙古族、朝鮮族そして日本人)による王道楽土の建設という理想主義的な響きの中に、大正浪漫の残り香を感じるのである。  もちろん、これが嘘っぱちであるのは知っている。  満州国は日本人による日本人のための日本人の国家だった。  たとえば満州国皇帝の溥儀(ふぎ)に何の実権も与えられていない。まさに傀儡国家である。  それでも満州事変の推進者である関東軍の高級参謀、板垣征四郎(いたがきせいしろう)と、その部下の石原莞爾(いしわらかんじ)らが、見栄えの立派な看板を建てようとでも思ったのか、五族協和とか王道楽土といった言葉を引っ張り出してきて「これで行こう!」なんて話し合っていたと想像すると、何か妙な可愛げ・可愛らしさ・微笑ましさを覚える。もういい大人だろうにね。  だが、これがもう日中戦争の頃になってくると、感じ取れない。  もっと露骨で、居直り強盗のような図々しさだけがある。  このように私は感じるようになった理由の一つは、名前は忘れたのだけれども、この当時の日本人十数名のインタビューが書かれた本を読んだからだ。繰り返すが、書名は忘れた。シリーズだった。その中の数冊だ。戦後のインタビューだったので、関東軍その他の日本軍に対しては批判的な内容なのだが、それでも満州国建国については思いのほか好意的な意見が多くて、驚いた。左派の文化人でも「あれ(満州国建国)は、よくやった」的な発言をしていた。なんじゃそりゃ! と思ったものだが、それが時代の空気というものだったのだろう。ただし、それが大正浪漫に分類されるものなのか、分からない。指揮者の小澤征爾の名前が板垣征四郎と石原莞爾に由来するのが大正浪漫と無関係であるようなものだろう……と訳の分からない説明を書く。  唐突だが、司馬遼太郎(しばりょうたろう)が青年時代からずっと抱いていたモンゴルの草原への熱い思いは、大正浪漫に近い感覚なのではないか、と感じられる。大陸に雄飛! といった肉食系ロマンではなく、もっと穏やかな憧れで、これが大正浪漫のロマンチックな世界観に合致すると、個人的には思ったのだ。  同じく作家の胡桃沢耕史(くるみざわこうし)も大正浪漫枠の人なのか、と夢想する。大陸への憧れに突き動かされ、海を越えて放浪の青春生活を送る……しかも特務機関員として活動の経歴あり。何をしていたのだろう(笑い)。  そんなことを書いている間に、二万字に到達しそうだ。  こんな後書きみたいな話は本編に書くべきではないと思うのだが、こうなってしまって申し訳ない。  モダンガールのアーニャとポメラ・リー・アンダーソンのパートを書きたかった。しかし、時間と体力の限界を感じ、目標の二万字を越える目途がついたところで、物語の幕を下ろすことにした。  構想だけはある。  しかし正直、事実関係が怪しい。今の時点でも胡散臭いのが、もっと嘘っぽくなってしまうのだ。  それはそれで何とかなるかな~とは思うけれど、その話を書くより投稿へ向けた最終的な処理を実行するのが筋だろう。さようなら。
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