ショートケーキと空き瓶

1/7
前へ
/7ページ
次へ
   ナンを二枚食べた。くせっけの彼は五枚食べた。そんなに食べて次の健康診断引っ掛かっても知らないからと言ったら、俺はどんなに食べても健康なんだと唇の端にくずをくっつけたまま、彼は言った。特に表情を変えずに、次々にナンを縦にさいて口に運ぶ様子が、なんだか面白くて、かわいくて、忘れがたかったのを覚えている。  木綿子(ゆうこ)は彼のことをアストレイと呼んでいた。本当の名前ではないが、他の名前は知らない。『木綿子』も適当につけた偽名だったけれど、彼が何度も木綿子さん、と呼びかけるので今ではすっかり慣れてしまった。  アストレイが木綿子の何なのかと言えば、同僚と言うのがいちばん正しいだろう。最初は後輩だったが、気が付いたら同輩になっていた。実力主義の現場なので致し方ない。昇進して同じ立場になった日に、木綿子さん、今日から敬語はナシですよ、と敬語でメッセージを送ってきた。結局、直属の後輩だった頃のくせが抜けないのか、ため口になったのにずっと木綿子さん、と呼ぶのでおかしかった。    アストレイが組織を抜けることになったと聞いたのは、ちょうど木綿子がアメリカの出張から戻ってきた日だった。  帰宅直後だというのに上司から電話がかかってきて、木綿子は渋々電話を取った。土産を仕分けながら適当に聞いていたら、突然そんな話が出たのだ。  組織を抜けるというのは死んだか裏切ったかどちらかなので、どちらにしろもうあの綺麗な面が拝めないわけだ、と木綿子はぼんやり思った。  アストレイにも一応土産は買っていた。彼は甘いものが好きだったので、ナッツにカラメルと砂糖をまぶしたお菓子を買っていた。甘党ではない木綿子には食べられないくらい甘いお菓子だった。  こうもあっさりと土産が無駄になるなんて、と木綿子は心の中でひとりごちた。現実はいつも、呆気なく一番酷いものを差し出してくる。  まあ、餞はしよう。同僚だったんだし、それくらいの義理はあるだろうと木綿子は電話に向かって言った。 「アストレイ、どこで死んだんですか?」 「いや、死んでないよ」 「……えっ」  話を最後まで聞きなさい、と頭に血がのぼるのをなんとかしなさい、という小学生に向けるような説教を毎度している上司は呆れながら用件を口にした。 「だから、君がやってね。地図は送っといたから」  理解は一拍遅れてやってきた。  死んでいなくて、組織を抜けることになって、君がやってねということは、つまり、木綿子がアストレイを……ということだ。 「……あ、はい」  まるで空気が抜けたような返事をしてしまった。 「十三人やられたんだよ。支部ひとつ分。こんな派手なの、久しぶりだよ」  上司は簡潔に被害を報告した。ほとんど知った名前だった。自分の支部なのだから当たり前だ。そうし支部の機密情報を持ち去ったアストレイは現在も逃走中ということだった。  木綿子はひとつ深呼吸して、感情のスイッチをいったん切った。普段はそういったコントロールがかなり苦手な木綿子だったが、今回ばかりは懸命に心を落ち着かせた。何せ身内が死んでいる。それだけは確かだった。思考が泥沼に陥れば仕事もできない。 「アストレイがですか?」 「そうだよ」  木綿子は、分かりました、と言って電話を切った。  どうしてアストレイが? たったひとりでどうやって?  ……分からない。分からないなら、考えるべきではない。頭に血がのぼらないために、仕事をするために、木綿子が身につけた唯一のすべだった。  さっき脱いだばかりのコートをまた羽織って、銃の残弾数を確認する。車のキーを手に取ると、土産と着替えが散らかった部屋が目に入った。 「……まあいいか」  帰ってきたら片付けよう。そう思いながら、木綿子は努めて事務的にドアを開け、習慣的に腕時計を見た。  時計は日付が変わるくらいの、真夜中を指していた。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加