ショートケーキと空き瓶

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 彼の潜伏先と思われる場所は、郊外のアパートだった。木綿子と違ってひとところに住まなかった彼はいくつか非合法の住まいを持っていて、その内の一つだった。以前一度だけ訪ねたことがある。その時に、ほとんど廃墟みたいなアパートを見て、木綿子はあんたもちゃんと家借りればいいのに、と言ったものだった。彼は、やだ、と顔をしかめていた。 「俺、住民票を取ったりなんだり、面倒なんだよ。わずらわしいし。木綿子さんは本当にそういうの好きだよね」 「仮初でも、土地に根付くってのは面白いもんなの」 「俺はまねごとでも、土地や人に縛られたくないよ。逃げられないことの何がそんなに楽しいの?」 「仮初だから、土地や人のおいしいところだけ食べてるんだよ」 「妖怪みたいだな……」  最終的に木綿子が肘鉄を食らわせたという思い出だ。  相変わらず廃墟同然のアパートの非常階段を、できるだけ音を立てずに上がっていく。人の気配はしないが、一つだけ明かりのついた部屋があった。記憶の中のアストレイの部屋と一致している。  ご丁寧にもドアは少し開いていた。向こうも迎え撃つ気だと気づいて、勢いよく木綿子はドアの内側に入った。  人影が見えた瞬間、木綿子は引き金を引く。途端、別の銃声がして、世界が暗転した。アストレイが照明具を撃ったのだ。  木綿子は数瞬で自分が出遅れたのを知った。 「対話もナシ? 木綿子さん、気が早いよ」  暗闇の中、からかうような声が存外遠くから響いた。  しくじったかもしれない、と木綿子は距離を計算しながら思った。こちらから分かるのはせいぜい方向だけなのに、向こうは木綿子の発砲でほとんど位置がばれている。こうなっては、黙り込んでいることにも意味がない。 「アストレイ」  腹を決めた木綿子は、声を張り上げた。こうなったら奴の言う対話ってやつをやって向こうを引きずり出そう。 「これでもあたしはあんたを買ってるの。投降するなら介錯くらいはやってあげる。だからさっさと出てきなさい」  駄目だ、煽りしか出てこない。この時ばかりはアストレイの口の上手さが恨めしかった。いつも彼と組む時は、彼が交渉や対話を請け負っていたのだった。こんな下手な挑発に返事は来ないだろうと思ったが、アストレイは余裕なのか答えを返した。 「一緒に地獄に落ちるとは言ってくれないんだ」  いつもの冗談みたいな返答に、木綿子は腹が立ち、目的もすっかり忘れてアストレイに反駁していた。 「一緒に地獄にいたくせに、勝手にほっぽって出て行ったのはあんたじゃない」 「確かに。じゃあ今から一緒にいる?」 「のこのこ敵の前に出て行くほど馬鹿じゃない」 「敵だなんて。あなたのことは殺さないよ」 「十三人殺しといてよく言う……」 「しょうがない。俺は間違えたんだ、今更信じてもらおうなんて思わないよ」  アストレイはやけに落ち着いていて、びっくりするほど冷たい声をしていた。 「しょうがない」という言葉が世界でいちばん嫌いな木綿子は、当たらなくてもいいから拳銃をぶっ放したい衝動に駆られたが、すんでのところで我慢した。  ちょっと見ない間に、そんな澄ました態度が取れるようになるなんて、と木綿子は苛立った。  最後に会ったのはいつだっけ。  ええい、余計なことを考えるな、と思うのに、脳は勝手に思い出の再生を始めていた。
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