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「何とか言え!」
伯爵は鋭く叫んだ。伯爵の声ばかりが反響した。
アスタロトはもう自分と話す気はないのじゃないか。
そう思うと気が気じゃなかった。この焦りは禁断症状だ。それともあのおかしな術のせいかもしれない。そうでなければどうしてわざわざこんなところに来たりするだろう。
「返事をしてくれ」
伯爵は鉄格子を握りしめたまま懇願した。
押し返される無言の波が拒絶だと思えばなおさら、伯爵は息をするだけで胸が苦しかった。アスタロトを閉じ込めたのは自分なのに、立場は全く逆になっている。檻の外にいる自分の方がよほど囚われている気がした。
「⋯⋯」
伯爵はぎゅっと目を閉じた。手の中もまぶたもじっとりと濡れている。
その時、背後で空気が動く気配がした。驚く間もなく、聞き慣れた声がかぶさる。
「あれっ、どうしたんだ。散歩か?」
伯爵は絶句して、後ろから突然あらわれたアスタロトを穴があくほど見つめた。
「俺の顔がどうかしたか」
「どうしたって⋯⋯お前こそ何で。それじゃこの牢にいるのは誰だ、第一どうやって」
「まやかし」
アスタロトは牢の内側に、ふっと息を吐きかけた。
頑なに伯爵を退け続けていたアスタロトの虚像は一瞬で消えた。いつものことなのに、伯爵はすっかり騙されていた。冷静ならこんなからくりはすぐに見破ったはずだった。伯爵はなけなしのプライドで皮肉を言った。
「謹慎中だっていうのに、お得意の術ってわけか」
「甘いものが食べたくなったんだ」
そういえば、アスタロトは片手に林檎のパイを持っていた。食堂から盗んできたらしい。
「窃盗だ」
伯爵はあきれて言った。アスタロトは肩をすくめた。
「また牢にぶち込むか? ちょっと待て、すぐ入る」
「いや、いい。もういいんだ」
伯爵は気が抜けてその場に座り込んだ。アスタロトもつき合って彼の前に腰を下ろした。さっそくパイをかじり始める。
伯爵はため息をついてアスタロトを見つめた。
もはやどうやってこの檻から抜け出したかは聞かなかった。不思議ではあったが、アスタロトならなんでもありえることがわかり始めていた。
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