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「⋯⋯怒ってるだろう?」
伯爵の問いかけに、アスタロトは食べかけのパイを飲み込んだ。
「別に。それより気は済んだか? こうしてわざわざここに来たってことは」
「よくわからない」
伯爵は目を伏せた。
「ただ⋯⋯お前と話したかった。なんでもいいから話をしてくれ」
伯爵はもうアスタロトを正視できなかった。
「信じられない。これが私の言葉か? どうしてこんなに弱くなってしまうんだ。これもお前の術のせいか?」
伯爵は片手で顔を覆った。前髪がくしゃくしゃになる。
「なんでお前はそんなに落ち着いてるんだ。私がここにくるって、それもわかっていたのか」
アスタロトは首を横に振った。伯爵は重ねて問い正した。
「この牢獄は最悪だ。理由もないのにほうり込まれて恨んだに決まってる。そうだろう?」
「いや」
「しかし私みたいな乱暴者の」
アスタロトは突然、てのひらで伯爵のロをふさいだ。
「もういい。なんとも思っちゃいない。つまり会いたかったんだろ? なら俺も一緒だ。それでいいじゃないか」
「私は⋯⋯」
伯爵の声は震えた。
「私を許す者なんて、この世に誰もいないと思ってた」
その瞬間、伯爵の心が泣いた。
涙はこぼれない。涙は牢獄時代に流し切ってしまった。だがこの心臓を締めつける狂おしいほどの感情の高ぶりは、涙にほかならなかった。
アスタロトは言葉を失った伯爵を静かに見守っていた。
こんなに美しい眼差しが、この世界に二つとあるだろうか。
伯爵はそう思わずにいられなかった。まるで地獄の底まで見透かしてきたかのような、紫水晶の瞳が恐ろしいほど綺麗だった。
「私はこの牢から出るのに死に物狂いで危険を侵した。ここからでた後もずっと戦い続けだった。牢にいた間と出た後と、どっちが孤独だったかって、そんなのはくだらない比較かもしれない。だが……私は牢から、この石の牢獄から逃れさえすれば、もっと自由に、幸せになれるんだと信じていた」
伯爵は自分でも思いがけないことを口走っていた。
「あの時ここで渇望していたものはすべて手にしたはずなのに、どうしていつまでたっても満たされないんだろう。大勢を従え、大勢を殺した。この土地もこの城もみんな私ものなのに、いつも体の中を風が吹きぬけている。
それともこれが普通なのか? 誰でもみんなこんな風に埋められない隙間を持っているものなのか。教えてくれ、何が私に足らないのか」
これでは泣き言ではないか。伯爵は言いながら愕然とする。
弱みを教えるようなマネをして同情でもひこうというのか。そんな浅ましさが自分にはあったのか。自分を責めながらその一方で、伯爵はなりふり構わなかった。
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