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「伯爵、あんたはすでに、その答えを知っているはずだ」
アスタロトは、パイを二つにちぎり、その一方を伯爵に差し出した。伯爵の手が止まった。
「俺もお前が幸せそうには見えない。境遇が絶望的に不幸だったのは認めるが、だからってお前の犯した大量の殺人を肯定する気にもならない。
だが、いくら自在に暴れたところで幸福にはなっていないだろう?
お前は不幸なまま一歩も動いていない。俺は、投獄でお前が被ったもっとも大きな悲劇は、人を信じられないって事だと思う。だから孤独を嫌いながら、いつまでも飢えを癒せない。違うか、伯爵」
「私が間違っているなんてどうしてわかる」
「殺しても殺しても満たされない。このやり方では駄目だということだ。もういいだろう、伯爵。ここら辺やめておけ。これ以上殺すな」
「⋯⋯」
アスタロトは黙り込んだ伯爵に、もう一度パイを突きつけた。
「毒は入ってない。魔法も」
「⋯⋯」
伯爵は青ざめたまま、浅く息を吸った。
他人から食べ物をもらうということは、彼にとって人に命を預けるを意味する。だがこれまでの伯爵の警戒心からすれば、不思議なくらい迷わなかった。もしここで差し出した手を拒めば、二度とアスタロトは笑ってくれないかもしれない。
「⋯⋯林檎のパイなんてご馳走だった。祭りの日だけ食べられる特別の」
伯爵はアスタロトから二分の一のパイを受け取ると、端をかじった。食堂で食べているものと同じはずなのに、牢獄にいるだけで懐かしい味がした。ここで衛兵から背を向けて、貪り食った味だった。
「一年に一度だけ、だから余計に旨くて旨くて⋯⋯」
伯爵は言いながら、悲しいのか情けないのか、おかしいのかわからなくなっていた。
この牢から出て血のにじむ思いで積み重ねて来たものは、一体何だったのだろう。ここに至るまでの苦労を思えば、全てが間違いだったとは思いたくない。
だがアスタロトの言葉は頭の中を巡り、反乱を起こそうとするように騒いでいた。
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