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2-21 脱出
心の奥で、妙に醒めている部分があった。
この非常時に手も震えず冷静に行動できるのはきっと、いつかこんなことが起こるだろうと予感していたからに他ならない。
伯爵は隠し扉を開けるために、黙々と棚から本を取り除いていた。
隠し扉を開ければ、地下に直行できる階段がある。戦略家で知られた祖父が作った秘密の抜け道だった。
しかし彼の父はもちろん、伯爵自身も使ったことはなかった。
直系の子孫だけに伝えられる逃亡用の抜け道は、圧倒的に不利な状況を乗り切る、唯一の命綱だった。
とはいえ城ごと崩されてしまえば、せっかくの仕掛けも無意味になる。だから伯爵はなるべくはやく、しかし追手に抜け道の存在を知られないため、痕跡を残さず扉を開けねばならない。
彼は爆音の中、本の配置を念頭に置きながら、慎重に作業を進めた。この状況で自刀するのは簡単だが、伯爵はギリギリまで踏んばるべきだと考えていた。それが鬼と言われた彼の意地だった。
と、その時。
「へえ、こんな奥の手があったのか」
伯爵は氷で背中を撫でられた気がして、息が止まりそうになった。落ち着いているつもりだったが、やはり実際はそうでもないらしい。
「大変なことになったな、伯爵」
「⋯⋯アスタロト!」
伯爵は呆然として、声の主を振り返った。アスタロトはこの緊急事態に、のほほんと微笑んで立っていた。その傍らにはショウもいる。
「お前また、術を使ったのか」
「まあな」
「まったく、あきれた⋯⋯」
伯爵は笑おうとしたが、類の筋肉がひきつるだけで、思うような表情が作れない。それでも精一杯、毅然と言った。
「術が使えるならさっさと逃げろ。何も好き好んでこんな危ないところにわざわざ来なく、ても、」
伯爵はまた言葉に詰まった。誰よりもこの二人に、この体たらくを知られたくはなかった。味方の一人もなく、追われて逃げていく姿を曝すのは我慢ならなかったのだ。
「⋯⋯嗤いにきたのか? この無様な状況を」
アスタロトは首を横にふった。そしてすっと伯爵に歩み寄ると、不思議なくらいなごやかな声で言った。
「迎えにきたんだ。伯爵、一緒に逃げよう」
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