1-1 人間界

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1-1 人間界

 若き宿屋の主、芳賀克己は困っていた。  二十代も半ばの青年がどんな悩みで唸っているかというと、色気も素気もなくご近所の環境問題である。  うーん、まずい。まずいなあ、どうしよう。 この状態を放っておくわけにはいかないし、だからってこればっかりは俺にもどうにもできないんだよなあ。うーんうーん……  このところ彼の頭の中では「まずい」と「どうしよう」がずっとぐるぐるしている。  克己は昨年、祖母から民宿『芳賀屋』を引き継いだ。敷地の中に綺麗な泉も湧いている小さな温泉旅館である。泉質は評判だが、お世辞抜きのボロい宿、しかも観光地から外れた過疎の村で客はあまり来ない。  引っ越し当初はあまりにもやる事がなくて途方にくれた。こんな田舎にたった一人で暮らしていけるのか不安にもなった。  だが、克己は高齢化のすすむ村でキラリと輝く若手である。変わりばえのない狭い村で退屈していたお年寄りが放っておくわけがない。彼らはとっかえひっかえ様子を見にやってきた。温泉旅館なので風呂だけの利用もある。健康の秘訣は温泉とばかり日課にしている村民もいる。そして客となれば克己も愛想よくふるまう。  始めこそ距離を保っていたが、ご近所との関係は直ぐになあなあになった。気のいい克己は話しのついでに困り事を聞くと手を貸してしまう。お礼をもらうとさらに張り切る。収入もろくにない克己にとって、彼らの風呂代や手土産に持ってくる農作物は貴重なのである。  結局、どっちが本業なのかわからない勢いで手助けに精を出し、ますます頼られるという状況に陥ったのだ。  とはいえ、これまでの相談事は単純だった。  携帯の使い方がわからないだの、草むしりだの、電球交換だの、ちょろいものが大部分。余裕でこなしてきた克己だったが、ここにきて難題が続出したのだ。  いわく、畑の上を火の玉が飛んでいく。  いわく、井戸でお皿を数えている人がいる。  いわく、満月になるとオオカミの遠吠えがうるさくて眠れない。  いわく、沼のほとりで落とし物を待ち構えてる女神がいる  いわく、いわく、いわく……  最近の相談は全てこの手の不思議系ばかり。お手上げである。
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