3-6 説得

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 克己は静かに息を整えた。  アスタロトを見ていると不思議な気持ちになる。  困り顔のアスタロトは途方にくれたように空を睨んでいた。こんなときなのに困っている表情すら美しい。長いまつ毛の下に光る、その紫色の瞳こそ至宝の玉みたいだ。 「……」    かなり順応力の高い克己でも、時々この田舎暮らしが本当に現実なのかな、と思う時がある。  今話している相手が悪魔だという事、口うるさいショウは天使だという事。なぜかアルパカがしゃべるという事。  そしてここいる自分も、一度死にかけてまた戻ってきたという事。  とにかく芳賀屋は普通でない事が多すぎる。  だが芳賀屋も、ここでの出会いも、全部ひっくるめて克己は愛していた。  都会のサラリーマンだった記憶が戻ると、克己はまず選択を迫られた。  向こうに戻ろうと思えば戻れる。仕事は探せばいいし、しばし音信不通だった息子と連絡がとれて、親も矢のような催促で帰ってこいと言っている。    そんな寂れたところにいたってしょうがないでしょう?    確かにそうかもしれない。だが克己は躊躇した。  社会の中心である都会に引きかえ、ここは時が止まったような田舎の宿屋だ。雑踏も電子音もない。耳を澄ませば鳥や虫の声、雨や風の音。夜は月が灯りに変わる。  だが慣れてみると、無い事は悪いことでもない。  むしろ克己にとって都会の生活は過剰すぎた。日々更新される情報もスピードが良しとされる仕事も息苦しかった。  それにひきかえ芳賀屋の仕事は体力は使うけれども嫌な疲れはなかった。毎日温泉につかって地元のお客さんと雑談する。そののんびりした暮らしが自分には合っていると思う。  そして。  第一にこの生活を選んだ理由に、アスタロトの存在があった。  いつも突然やってきて泊っていくこの友人は、尊大だが優しく、休みに来ていると言いながら実際は克己を見守っている気がする。  もし都会に戻ってしまったら、悪魔であるアスタロトは訪ねてきてくれるだろうか。  案外義理堅いから来てはくれるかもしれない。  だが窮屈だろう。何気なく羽を広げたり、空に浮かんで月をみたりすることが、向こうでは叶わない。  
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