1-10 克己

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「でも俺、まだ動けるよ。苦しくないもの」  克己はムキになって言った。病院の記憶から少なくとも数か月以上経っている。悪魔は続けた。 「もはや積極的治療法のなかったお前は手当たり次第に体に良い事を試し、一部の口コミで奇跡の湯と言われている芳賀屋を訪れた。しかし、その時この宿は困った状態だった。女将のばあさまが老衰で亡くなり、存続の危機に瀕していたからだ」  克己の頭の中に、訪ねた日の光景が浮かんだ。呼んでも誰も出なくて、戸に触れたらカラリと開いた。普通なら不法侵入になるから勝手に入ったりしない。  でも克己も必死だった。命が助かるかもしれない温泉がそこにあるのに帰るわけにはいかない。  家の中は締め切っており、人の気配はなかった。中が良く見えなかったから縁側に続く引き戸を開けた。すると庭に泉が湧いていて、そこに小さな蛇がいた。  不思議と怖くなかった。蛇は弱っていて、克己を見つけると鎌首を持ち上げた。  ……これはよい。主がいなくなり困っていたところ……  頭の中に直接声がした。蛇はするすると克己の足元に近づいた。蛇は克己を見上げるなり言った。  ……病か。 「うん。……へえ」 驚きで見開いたその目からふいに涙がこぼれた。 「一目でわかっちゃうんだ。そんなに駄目なんだね俺。やっぱりもう治らないんだね」  そうだ、治らない。  信じたくなかったが、その頃にはもうごまかし切れない痛みがあった。事実なんだと認めざるを得なくなっていた。  泣いた克己は、その勢いで誰にも言えなかった本音をこぼした。怖い。死ぬ日が近づいてくるのが辛い。痛いのは嫌だ。  すると蛇は言った。  ……ならばこの宿の主となれ。できる限り力を貸そう。
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