美術館へようこそ クリムト「接吻」

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
「何回言ったらわかるの?」 私はアナウンサー上がりのアラフォーTVディレクター。バツイチは内緒だけど、若い社員からはオールドミスと陰で呼ばれているのは知っている。 「キチンと番組のフォーマットに合わせなさいよ! やり直し!」大きくため息をついた。 「いよいよ来月から管理職か。」 背後からプロデューサーの声がした。 「ええ。」と、うかない笑顔の私に苦笑いしながら机の上にポンと封筒を置いた。 「これで最後の自由を謳歌すると。」 私の勤める地方局は管理職になる者に1週間の有給と少しばかりの奨励金が出る。 「管理職は想像以上に辛い立場だ。ま、十分充電してくるんだな。」 励ましなのか、それとも...。 一週間後私はウィーンの地を踏んでいた。 シェーンブルンの丘に背中を向けて仁王立ちする私には、何かを予感させるそよ風が吹いている。以前から本物のクリムトの「接吻」を見てみたいと思っていた。そう、あの金の輝きを。  ダンとテーブルの上に置かれた大きめのグラス。ビール? ウェイターは飲めと目線を送っている。 アルコールは苦手でと...あれ、爽やかで美味しい。リンゴジュースを炭酸水で割ったものらしい。本物のヴィエナーシュニッツェルは想像以上に大きかったけど、薄いからかペロっと食べてしまった。  コーヒーと言いかけるとウェイターは指を横に振って反対側の通りを指さした。シャッターしたトラムの向こうには..カフェ? 「特別ですよ。」白いカプチーノみたいなコーヒー(メランジュ)とザッハトルテに散りばめられた金箔? 美味しそう。思わず写真を撮った。 イケメンのウェイターがウィンクしてる。 こ、恋の予感? な訳ないか。 横切るトラム ウィーンの夕景 朝日を受けるベルベデーレ まさに宮殿美術館。こんなところに自分の絵が何点も飾られているなんてクリムトもさぞ鼻高々だろう。  白い階段を登ると大広間。そのゴージャスさに圧倒される。自分がちっちゃくなっちゃう感じ。そして、最初に見えてくるのが色とり採りの「花嫁」。私の期待はきんきら金の方だけど、実際に見るとこのカラフルさは自分の全身がいろんな色に染まるのではないかというほどすごい。  彼の遺作の一つということだけど...。 真ん中の女性の安心しきった表情に癒される。素敵な彼は私のもの。きっと彼も...。いや、ちょっと待って!この構図にはたくさんの問題がある。この絵はあんまり好きじゃない!  花嫁はとろけそうなのに、2人の左右にはなんであんなに女の幻影がいるの? それが男女関係の現実ってこと?それとも、これは彼の女遍歴? 遍歴ならまだ許せるけど、まさかの同時進行? 画面左がこれまでの女たちで、それを引きずった上に画面右側では新しい愛人たち? グスタフ! どういうこと? そりゃぁね、あなたはいろんな女を愛し愛されたのかもしれない。でもね〜。あたしにはありえない。だいたいなんでタイトルが「花嫁」なの? 「俺様」ってした方がいいんじゃないの?或いは、「女はつらいよ」ね。  まだまだ描き残したところがあるし、きっともっとカラフルになるはずだったんだろうし、実は、もっと女を描き足そうと思っていたに違いない。  でも、左右から角度を変えて見るとそのタッチが見えてくる。踊ってる、躍動する筆の動きがわかるようだ。本物を見ることは、作者の息やほんのりとそこに残っている本人の温もりを感じられることかもしれない。100年以上も経っているのに! 平面なのに立体なのは、ちゃんとボディを描いてから服を着せるように描いているかららしい。でも大事なところをあんまり隠したくなかったのね。やっぱり困った男だ。  癒された花嫁の顔を今一度見ると、今度は騙されてんじゃないの? ってなんだか腹が立ってきた。 確かに男と女の関係の一場面ではあるけれど。 グスタフ!どこ見てんの! って絵に叫んでいる私に気が付いた。  次の部屋に行くと小さくて渋く金色に輝く 「ユディト」がある。  まるでセクシーなコスメティックサロンの情景が金色のお弁当箱に詰まっているよう。でも、男のそれは生首。ここには女の怖さが描かれている。そう、世の中にはバカな男どもがいるのよね。たっくさん。いくら偉い地位についてようがここぞという女の魅力には勝てないってことかしら。ウィーンにもご年配と若い女のカップルをたくさん見かけるけど...。西洋阿部定にならないように気をつけないと、ね、おじさま。  じゃあ、女のセクシーで勝ち誇ったその微笑みはどうかと言われると、ちょっと疑問かな。私はそんな女じゃない。それにしてもあの黒髪、なんであんなにベタなのかしら。横から舐めるようにして見ると少しはタッチがわかるけど。金と対比すると余計にベタ。肌はあんなに色っぽいのに。彼女の深い暗闇を描いているとしても。その表情が全てを物語っているように見えるのだけど。 「うふふ、そうでしょっ」て私に言っているのが聞こえるようで、ちょっと背筋が寒くなる。  そして、そろりと目線を外して次の部屋に行くと、そこにはあのキンキラ金が目に入ってくる。ここの空間は金色の光の反射で溢れている。そして、何処か懐かしい気分にさせられる。ホッとしたような、その金のベールに包まれるような。そういえば、なんとなく日本の金屏風のようでもある。絵の左右に鶴でもいたら、まさにそう。確かに彼は日本の影響を受けているに違いない。四角い模様も丸い模様も着物みたいだ。  そして、あの女の恍惚な表情。首があんなに曲がっちゃって痛くないのかしらって思うけど、あんな風に抱かれてみたいって気持ちが私の何処かにもある。それってきっと私だけではないと思う。  英語のタイトルはThe Kiss。日本語は接吻。今の男、接吻していい? なんて聞くやつはいない。だいたいそんな奴がいたら気持ち悪い。文章語だよね。でも、「Kiss」っていうより「接吻」の方が重く深い意味を感じるのは日本人だからかもしれない。私が英語に翻訳するとしたら「ブチュー」かな。あ、これ日本語か。不思議とゆっくりとした、或いは永遠の時間の停滞なのか流れなのかを感じるのよね。 そして、この絵におっぱいが出てこないのもきっとSex以上に大切なものがあるから。それが逃げないように厚い金のマントで覆っている。そう、永遠の2人。  ピー!  「あまり近づきすぎないでくださいね。」 絵に近づきすぎて2人を見上げた首が折れそうになった自分に気が付いた。 「この絵がお好きですか?」 私は黙ってうなづいた。 「私も大好きなんです。係員としてここに毎日座って見ていますが、飽きるどころか魅了されてばかりなんです。」  初老の彼の目線が遠い。絵の深いところを見ているようだ。 「そしてこのカラフルな崖っぷち。」  そうだ。崖っぷちだ。もしかしたら、ここは広陵とした大地だったのかもしれない。でも、2人の愛がこんな素敵なお花畑に変えてしまったのだ。 「でも、2人がいるところは危険なところ…。」  彼は深い笑みを浮かべながら首をゆっくり傾げた。 「よぉくご覧になってください。」  私はゆっくりと花が咲き乱れる崖を観察した。右に行くと彼女の足が…。あ!」 「そうなんです。彼女は爪先立っているんです。」 「崖っぷち、でも、彼らは落ちないのね。」 「ええ、絶対に。踏ん張っていますから。」  私はそのままゆっくりと後退りしながら2人のキラキラのガウンを撫で上げて表情を見、そして絵全体を見た。 「崖っぷち。でも絶対に落ちない。」  いつの間にか彼はいなくなっていた。  私の充電は完了した。 「番組のフォーマットからは少し外れているけれど、これはこれで面白いかもね。」 「はぁ?」若い新人は嬉しそうに表情を歪めた。 「ただし、コピペみたいのはダメよ。大切なのはあなた自身の切り口。ね。」  いつもならダメだという上司も口を出さなかった。不思議と彼女たちが輝いて見えたのだ。    あの係員が気がつく  ヴェルヴェデーレ「接吻」の間  また一人の女が絵に見入っている。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!