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ゆらゆらゆれる
着いてみると、待ち合わせの時間には随分と早かった。思ったよりもずっと早く終わってしまったのだ。仕方がないので冬は近くのカフェに入ることにした。
「いらっしゃいませ」
入ってみたそこは、カウンターで注文をするタイプの店だった。
休日の十六時過ぎ、店の中は人が多かった。注文の列に並んでいると店員からメニューを渡されたが、多すぎてよく分からない。そういえば、同僚の杉原がよく昼休みの終わりにこの店のテイクアウトの飲み物を買って来ていたな、と思い出す。ひと口飲む? と何気なく差し出されて戸惑ったこともあった。彼氏と同棲生活が長いからか、杉原はそういうところはかなり緩く鷹揚だ。
自分が彼氏だったらと考えてふと苦笑が漏れた。
(ちょっと危なっかしいだろうなあ…)
ぼんやりとメニューを見ながらそんなことを思っていると、横からすっと手が伸びてきて、メニューを指差した。
「これおすすめだよ」
「──え?」
驚いて顔を上げると、前に並んでいた若い男が冬を見ていた。おそらく大学生くらい、全身黒っぽい服装で、大きめの上着にリュックを背負っている。
「あ、違った?」
驚きが顔に出ていたのだろう、大学生はばつが悪そうな顔をした。
悩んでるかと思ってと呟いた彼に冬は笑った。
「いや、ありがとう。いっぱいあるから悩んでたよ」
「そう?」
「うん」
大学生がおすすめだと言ったのはアイスコーヒーにミルクホイップが乗ったもので、見た目はコーヒーフロートみたいだった。
あまり甘い飲み物は飲まないけれどこれは美味しそうだ。
「キャラメルシロップかけてもいいし、…甘いの好き?」
「ごめん。あんまり」
「そうなんだ? へえ…」
意外、と言われて冬は苦笑した。見た目からよくそう思われるようで、これまでも同じようなことを言われてきた。
話しているうちに彼の番が来た。冬は彼が終えるのを待っている間スマホを取り出して連絡を確認する。画面には何も出ていなくて少しほっとした。
まだ終わってないみたいだ。
「えーと…」
大学生がカウンターから離れた。店員に呼ばれて冬は注文をした。教えて貰った飲み物を頼み、ふと思いついて店員を呼び止めた。
「あ──、あの、キャラメルシロップも追加で」
「はいかしこまりました」
女性店員がにこやかに笑う。
たまには違うものを試してみるのもいいかもしれない。
横の受け取りカウンターで出来たものを手に客席に行く。人で溢れた店内の中、座る場所を探していると手を振る人がいた。
あ、と冬は足を止めた。先程の大学生だ。
「こっち」
そう言って、座っている小さなテーブルの向かいの席を指差していた。
***
人使いの荒い男だと常々思ってはいたが、こうもこき使われるとは。
今日は本当なら休日をもぎ取っていたはずなのに、蓋を開けてみれば結局仕事をしているのだ。
「大塚さん、大塚さん! これやっておいて下さいよ。来週の月曜日まで! ちょっと、聞いてるんですか!?」
「はいはい」
コピー機の向こうから目を吊り上げた所長が──所長の村上が怒鳴っていた。書類を纏めていた手を止めることなく大塚が生返事をすると、さらに声が高くなる。
「いやほんとに! この間みたいに途中で帰っても差し支えないくらいにはしておいてくださいね!」
それは嫌味だ。先日、案件で行った歯科医院から先に帰ったことを言っているのだ。
あれはもう自分の出番は終わっていたのだ。
それにもっと大事なことが大塚にはあった。
「じゃあ一人で行くってのはどうです?」
「それあんたがいる意味なくない?!」
「ああ…」
確かにそうかもしれない。
「ったく…、いいから仕事して仕事!」
やれやれと大塚は息をついた。やりたくてやっている仕事だからするのは苦にはならない。むしろ自分はワーカホリックだと思っていて、際限さえなければいつまででも仕事をしていられた。だが、それも事情が変わった。
「はいはい頑張りますよ」
出来ることなら早く帰りたい。
今すぐにでも。
冬との待ち合わせは夕方だったが、早くももう帰りたいと思う自分がいた。
大塚が歯科医をやめたのは四年前、三十一歳の時だった。代々の家業と言っても差し支えがないほど大塚の家系には歯科医が多く、当然そうなるものだと思って育ってきた。好きか嫌いかと言われればそれは好きなほうで、確かに大塚には天職だったのだ。だが、ある日それは突然に終わりを迎えた。
父親の医院で二代目として勤務していた時、担当だった子供が亡くなった。その子は小学二年生で学校の歯科検診で虫歯があると診断され、大塚の診察を受けたのだ。
『こんにちは』
『……』
『虫歯があるみたいだね、ちょっと診てみようか』
もともとその子の母親が大塚の患者だった。初めて診察するその子に、大塚は出来るだけ優しい声を掛けた。普段から怖いと言われている自分だ。父親の医院には子供の患者も多く、怖がられないようにときつい目元を隠すため眼鏡をかけたりと、努力していた。
だがその子は大塚を最初から最後まで怖がった。虫歯は比較的大きくて麻酔が必要だった。傍に付き添った母親に宥めてもらいどうにか最小限の麻酔を施し、いろいろと話しかけながら小さな虫歯を治療することが出来た。
『えらかったね、また来てくれると嬉しいよ』
『ほら、先生に返事は?』
『……』
『ちょっと──もう、ほんとにすみません』
『いえ。またね』
またおいで、と言って手を振った。
その子は涙目でじっと大塚を見つめ、何も言わずに帰って行った。
そしてその翌日その子は亡くなったのだ。
『え?』
『大塚先生、ちょっとこれ見てください』
事務員に引っ張られて休憩室のテレビでそのことを知った。
歯科治療後、帰宅してすぐ体調を崩したその子はその夜遅くに意識を失くしそのまま死んだという。テレビで知った直後、警察が尋ねて来た。昨日治療に立ち会った衛生士と別々に事情を訊かれ、大塚はありのままを述べた。それは別室で話した衛生士も同じで、カルテのどこにも不備はなかった。
『死因が麻酔なんてありえないですよ』
いくつかの備品や書類を持って警察は帰って行った。衛生士の言う通り、それが原因の可能性は低かったが、医療に絶対という言葉はない。実際そういった事例が過去にもあった。特に子供は──上手く言葉にして言えない分、突然命を落としてしまう。
その日は予約の患者の半数がキャンセルとなった。噂が広まるのは本当に早いものだ。それが悪い噂なら、尚更だ。
大塚は自分には非がないと信じて仕事を続けた。そして警察が訪れた日から三日後、子供の両親が逮捕された。
罪状は自分の子供に対する虐待と、その子に対する医療の乱用の疑いだった。
『乱用…?』
『ええ、代理ミュンヒハウゼン症候群、虐待の類型ですね。親の精神疾患と間違われやすいのですが、立派な虐待です』
後日押収品を返しに来た担当警察官が教えてくれた。子供の母親と父親は──特に父親のほうが子供に対してそうだったと。母親はその追随者、父親の言いなりだったようだ。
『歯科治療が満足に出来なかったと自宅で──、どうやら知り合いの別の歯科医に協力をしてもらった形跡があるんですが、そちらの立証は難しいかと。まあそんなところです』
大塚の祖父の知り合いだというその警察官はそこまで話すと、院長室のソファから立ち上がった。
『その医者って…?』
大塚の問いに警察官は答えた。
『行方不明です。勤務医だったんですがね、尋ねて行ったときにはもう姿をくらましていました』
事件はいったんそれで幕引きとなった。
事の顛末がテレビなどで放送されると、大塚の父親の歯科医院も元のように患者が戻ってきた。前と同じ日常が繰り返されて行く中、大塚は歯科医を辞めると家族に告げた。
家族は反対したが、決心は揺るがなかった。
そして大塚はある人物から教えられ村上を訪ねた。
村上は医療事故などを専門に扱う弁護士で、その調査力には定評があった。
『は? 歯医者さんなの? え、なんで?』
いきなり履歴書を持って訪ねて来た大塚に村上は面食らっていた。
『捜している医者がいるんです。そいつを見つけ出したい』
『捜したいって…』
『無理なら他をあたる。少しでもいい、使ってくれませんか』
子供の両親に協力したという医者を大塚は捜し出したかった。それで何が出来るというわけでもない。あの子が帰ってくるわけでもないのに。
それでも、忘れられなかった。
じっとこちらを見ていた。
助けてほしいと──今にして思えばそうだったかもしれないという、ただそれだけで。
村上は大塚を表向きは弁護士見習いとして雇ってくれた。聞こえはいいが要するに雑務要員だ。そして体のいい調査員であり使い走りであり、強面要員だった。戦歴はともかく人使いの荒い村上の下では雇った人間が片っ端から辞めていくらしく、大塚が勤め出してから何人か一緒に働いたが、そのどれもが半年も持たずに辞めていくのだった。
大塚も目的がなければ早々に辞めていたかもしれない。
そして先日、大塚の願いは叶えられた。
ようやくあのときの歯科医が見つかったのだ。
村上のところで働き出してから四年が過ぎていた。
「出来ました。じゃあちょっと休憩ってことで」
仕上がった書類を村上の机に置いた。
「また煙草…」
「外に行きますのでお気遣いなく」
「わかったからさっさと行きなさいよ」
書類に目を通しながら、村上は追い払うように手を払った。事務所の入る雑居ビルの一階は裏手に小さな荒れ庭がついていて、そこがいつもの喫煙場所になっている。大塚はさっそく煙草を咥えながら事務所を出ようとして、村上の視線に気づいた。
「…なんですか」
「いいえ?」
「……」
「だから何でもないって」
何か言いかけてやめているのは明白だ。
ドアの手前で振り返ったままじっと見ていると、はあ、と村上はわざとのようにため息を吐いて大塚の作った書類を手に取った。
眉を顰めて上から目を通していく。
一番下まで視線が移動したとき、ふん、と村上は鼻を鳴らした。
「…書類仕事も板についてきたもんだ」
「まあ四年も経てばね」
「そして捜し物も見つかった、と…」
「……」
顔を上げた村上と目が合った。
互いに次に続く言葉が何なのか、よく分かっていたが口にしない。
「願えば叶うもんだ」
口の端に煙草を咥えたままそう言って、大塚は事務所を出た。
一階まで降りて裏庭に続くドアを開ける。
荒れ放題の小さなそこは、まるでおもちゃ箱をひっくり返したかのようだ。誰も片付けようとせず、誰も見向きもしない。訪れるのはおそらく大塚だけ。ドアの傍に置いてあるスタンド灰皿も、ビルの廊下の隅に置かれて埃をかぶっていたものを大塚がここに持って来たものだ。
午後の日差しを浴びながら煙草に火をつける。
それにしても不思議なものだ。
四年も探していた人物は意外なほど近くにいた。
そしてあの日あの場所にいなければ冬のところに駆けつけることは出来なかった。
まさか、目と鼻の先だったなんて。
夜間診療所から歩いて五分もかからない。逃げた歯科医は今度は自分の医院を開いていた。デンタルクリニック・ホワイティア、それがその医院の名前だった。
冬が行こうとして結局は行けなかったそこに、大塚の捜していたものがあったのだ。
***
十五時過ぎ、大塚は予定よりもかなり早めに仕事を終えた。待ち合わせは十六時、先に行って冬が来るのを待つ時間は十分にある。
それじゃ、と大塚は立ち上がった。
「俺は帰りますよ」
「…お疲れ様でした」
モニターを見つめたまま村上が言った。こちらを見ないのはいつものことだ。大塚以上に仕事人間の村上は没頭しているときは周りのことなど目に入っていない。
返事をするのはまだいいほうなのだ。
村上のデスクの前を通って出ようとしたとき、ふと村上が顔を上げた。
「何か予定でも?」
振り返ると、村上の視線はもうモニターに戻っている。その横顔をじっと見ていると、村上はわざとらしく咳払いをした。
「まあ関係ないですけど──前みたいな厄介な女性には気をつけてくださいよ。あなた、ただでさえ色目で見られること多いですから」
半年ほど前に大塚の家にいた女のことを言っているのだ。大塚がいい加減な態度だったせいで彼女はこの事務所にまでやってきて読んで字の如く大暴れして大塚の前から姿を消した。あのときは本当に酷かった。修羅場に慣れている村上でさえ、茫然としていたくらいだ。
「俺が心配とか?」
大塚は軽く言った。どうせ嫌みの一つでも言い返されると思って待ち構えていると、村上はモニターから視線を外し、大塚を見上げた。
「いなくなられると困るんでね、──あなた顔が怖いから」
小さく目を瞠ると、村上はさっと目を逸らし作業に戻った。机の上に積み重ねられた書類の束は朝から殆ど減っていない。山積みの案件、キーボードの横に並んだ栄養ドリンク、どれだけこなしても実入りのない仕事ばかりを受けてくる性分。
相容れないところは多いが、大塚は彼のことがそれほど嫌いというわけではなかった。好きかと言われれば大いに首を傾げるところだが、当分はこのままでいいと思えた。
役に立つと言うのだからそれでいい。
村上のところに導いてくれたあの子の祖父母にも感謝している。
田野口からは再就職先を斡旋されていた。古い開業医の院長が体調を崩し最近閉院したばかりのところだった。
『おまえがその気ならいつでもいいんだそうだぞ』
こんないい話はないと、名前入りの白衣を早々に贈られていたが、出番はなさそうだ。
しかもそれは、先日診療所のロッカーから取って来いと言われ田野口に渡した荷物の中に入っていたのだ。
贈る相手に取って来させるなんてあいつも大概どうかしている。
「それじゃ」
また月曜、と大塚は言って事務所を出た。
***
「あれ、追加したんだ、それ」
向かいに座ろうとした冬の手元を見て、大学生は言った。ああ、と冬は頷いた。
「たまにはいいかなって」
「へえ、美味いよそれ」
弄っていたスマホをテーブルの端に置いて笑う。笑うと少し目が垂れてずっと幼く見えた。冬が口をつけるのをじっと見ている。
あ。
「美味しい」
「でしょ!」
それほど甘すぎなくてちょうど良い。
そう言うと、彼は頬杖をついて嬉しそうに笑った。
ふと冬は、テーブルの上のレポート用紙に目が留まった。
「大学生って、今もそういうの使うんだ」
自分の時はまだノートパソコンやタブレットを持っている人はそう多くなく──お金がないというのもあったが、冬も似たようなレポート用紙に書いてはそれを大学のパソコンで清書していた。手書きでの提出は禁じられていたのでしばらくはそうしていたのだが、さすがに提出頻度に追いつかなくなったので、兄の五月が使っていた中古のノートパソコンを譲って貰ったりしていた。
「あーオレは…、ていうかなに、今はって? そっちも大学生でしょ?」
「え、違うけど」
おかしそうに言われて冬は首を振った。
えっ、と大学生が声を上げた。
「嘘」
「ほんとだって──」
冬は苦笑した。
この歳になっても私服だとよく間違われる。昔はもっとひどくて、それこそ高校くらいまでは冬を女の子だと思う人もいた。さすがにそれはもうないけれど、よくそれで五月に揶揄われたものだ。
疑いの目を向けられて、冬は財布から免許証を取り出した。一度も車を持ったことはないが、身分証代わりになるし、就職に役立つからと取ったものだ。
「ほら見て、ここ」
生年月日を見せると、大学生はちょっと目を丸くして免許証を見た。じっと見つめ、ほんとだ、と呟く。頭の中で年齢を割り出したのだろう。
「26? 嘘でしょ、どう見たってオレと変わんないけど」
「これでもちゃんとした社会人だよ」
「へえ…、会社員なの?」
「そうだよ、普段はちゃんとスーツ着てる」
今日は休日だから仕方がない。大きめのトレーナーに細身のズボン、夕方から寒くなると出がけに天気予報で聞いたから、厚めの上着を羽織ってきた。
もう十一月。
早いものだ。
「うわスーツ似合いそう。ねえ、名前、これなんて読むの?」
冬の免許証をまじまじと眺めながら大学生は言った。
「ふゆ、そのまんま」
「ふゆ? なんで?」
驚きを隠せない大学生の反応に冬は苦笑した。大概皆揃って同じ反応をするから面白いものだ。
もう過去に何度も訊かれたことを冬は返した。
「おれが冬生まれだから」
十二月が誕生日だ。
「あー、ほんとだ」
免許証の日付を見て彼はまた目を丸くする。
ちなみに、と冬は言った。
「兄がいるんだけど、五月って言うんだ」
「サツキ?」
もしかして、と大学生は呟いた。
「もしかして五月生まれ?」
「そう」
当たりと冬は笑う。
冬は十二月に生まれたから、五月は本当にそのままに五月に生まれたから。名付けたのは小さな頃に病気で死んでしまった父親だ。写真でしか知らないその人は冬が入退院を繰り返していたその最中に風邪をこじらせて呆気なく亡くなったという。母親の冬に対する過度な干渉は、おそらくそういうところからも来ているのかもしれない。訪ねて行った息子の同級生に色々と訊かれ、何もかもを話してしまうのもきっと寂しさからだったのだ。
きっとそれがまるで知らない人だったとしても同じことだっただろう。
最近は少しそれも落ち着いてきた気がする。離れて距離を置いたことでいい結果が生まれることもある。
離れて…
「…どうかした?」
はっと冬は顔を上げた。大学生が心配そうにこちらを見ていて、気づかぬうちに黙り込んでしまっていたと知った。
「なんでもないよ」
「嫌なことでもある?」
「…ないよ」
笑いながら答えた冬の脳裏には、名取の姿が浮かんでいた。あれから二ヶ月余りが過ぎようとしている。
『なんか大変だったな、宮田』
あのあと少ししてから同級生の古賀から連絡があった。どこから聞いたのか名取との間にあったことを彼は知っていた。もちろん、表向きなことだけだ。本当に何があったのかを知るのは、名取を含めて四人しか知らないことだ。
『あいつそんな感じだったっけ? 会社クビになってまで何がしたかったんだろうな』
『…うん』
『今どうしてるか知ってんの?』
『…奥さんと一緒にいるとは、聞いてるけど』
『へえ、離婚しなかったんだな。あの奥さんああ見えて強いな』
感心する古賀にそれ以上のことは知らないと言った。名取の元上司の相沢から知らされたのは本当にそれだけで、その後のことは分からない。日向からは一度だけ仕事中に着信があったが、出ることが出来ずすぐに折り返したのだが繋がらなかった。
そしてその夜遅くにメッセージだけが送られてきた。
『もう会うことはないと思います』
会うことはない。
それは名取が?
それとも彼女が?
きっと両方の意味だと冬は思っていた。
「…え?」
大学生が冬を見て驚いた顔をする。
なんだろうと思っていると彼は慌てたようにリュックからくしゃくしゃになったポケットティッシュを取り出した。
「──」
あ、と思う間もなく目元を拭われて、初めて冬は自分が泣いていることに気がついた。
「ごめ…」
「やっぱ会社で辛い事とかあるんでしょ、オレ話聞くけど」
身を乗り出した彼に、はは、と冬は苦笑した。
「いや、ちょっと、いろいろあって」
「何? 話したら楽になるかも」
こんなことを見ず知らずの他人に話せない。大丈夫と笑って躱そうとしたが、真剣な目に息を呑んだ。
「場所変えようよ」
大学生は立ち上がると、冬の腕を掴んだ。
「え…」
「行こう? オレ──」
ぐい、と引かれて腰が浮いた。その拍子で椅子が音を立てる。店内は騒がしくて誰もこちらのことなど気にもしない。
(あ)
ふらりと体の芯が揺れる予感がした。まずい。
この感覚には覚えがある。ありすぎるほどに──
倒れる。
「──と」
そう思った瞬間、冬は後ろから強い力で抱き止められていた。
ちょっと目を離しただけだったのに。
冬の体を腕に抱き、大塚は短く息を吐いた。
「大丈夫か?」
「え、史唯さん…っ?」
驚いて振り仰いだ冬に視線を落とした大塚は、ゆっくりと顔を前に向けた。
「友達?」
「え──、あ、今知り合って…」
目の前の若い男は──大学生か? ──冬の腕を掴んだままだ。大塚はその手首を握り外させた。テーブルの上にあるものに気づかれぬよう眉を顰める。
「悪いけど待ち合わせてたんだ」
「…あ、そう、なんだ」
大学生はぎこちなくそう言うと、自分の手首を握りしめた。
「行こうか」
支えていた冬の体を立たせる。冬はこくりと頷き、テーブルの上の飲み物と免許証を手に取った。
「じゃあ、ありがとう、また」
冬の背中を押して背を向けたとき、あ、と大学生が言った。
「冬さん! あの──」
店内は騒がしい。
ちょうど入ってきた新しい客に店員が声を掛けた。
「いらっしゃいませ」
その声にかき消され冬には聞こえなかったようだ。
「ふ──」
大塚はその視界を遮るように間に立ち大学生を一瞥した。案の定、言いかけた言葉を喉に詰まらせたように、彼は強張った顔で立ち尽くしていた。
店を出たところで冬が待っていた。
「ごめん、よく分かったね、おれがいる場所」
待ち合わせたのはここではなく、駅前の銅像の前だった。
ああ、と大塚は頷いた。
「たまたま前を通って、気がついたんだ」
「そっか」
よかった、と冬は笑う。
その笑顔に安堵しながらも、大塚は冬が持っているものに目をやった。
「それで、なんでそんなものを出してたんだ?」
「え?」
「今知り合ったばかりなんだろ?」
「……」
「冬、あのな──」
「え、と…」
大塚を見上げていた冬の視線が、急に慌てたように左右に揺れる。
今気づいたのか。
本当に──、深く息を吐いた。
「いいから、おいで」
大塚はぐい、と冬の腕を掴んで引き寄せると、タイミングよく来たタクシーを止めた。
***
本当に、危なっかしい。
本当に。
「あ、…ごめ、ごめ、なさ…っ」
真っ赤な顔で身悶える冬を大塚はベッドに抑えつけたまま、指でぐるりと中を抉った。
「…っ、あ、あっ、ご…っ──、ん、ゆる、してえ…っ」
「冬」
「は、あ…、んっ…」
「本当にもうしない?」
「しな、しな、いぃっ」
「本当?」
「ほんと…、おっ、ぁ」
震えて濡れる唇に口づけを落とすと、縋るように冬が大塚の唇を舐めた。掴んだままの手首を放してやると大塚の首に触れてくる。
おそるおそる項を辿る指先が愛おしかった。
「会ったばかりの人間に見せるのは駄目だ」
「…ん」
「あんなに簡単に…、頼むから」
「…う、ん」
心臓が止まるかと思った。
待ち合わせより早く着き、通りかかった店の中に冬の姿を見つけた。
たまたま、そうだったのだ。
あのときほんの少しでもタイミングがずれていたら──大塚が何気なく店のほうを向いていなかったら──
考えただけでぞっとする。
過保護かも知れないが、それでも。
あの若い男が掴んでいた冬の左腕を大塚は持ち上げた。馬乗りのまま、ゆっくりと、冬の目の前で見せつけるように舌を出してぞろりと舐めた。
「あ、…ふみただ、さ…、っ」
かあ、と冬の顔が紅潮した。
その目を見ながら大塚は甘い肌を味わった。冬の性器を愛撫するように、柔らかな肘の内側を擽り、そのままゆっくりと手のひらまで辿って指を口に含んだ。
「や、やっ、あ…」
指の一本一本をねっとりと舌を絡ませていく。上から下へ、指の股を吸い、腔内で弄んだ。感じるのか、びくびくと口の中で跳ねる指先を甘噛みすると、あ、あ、と冬は肩を竦めて首を振った。
「史唯さ、も、しないからっ、それ、もうやだ、あ…」
涙に滲む瞳を見下ろして、大塚は冬の指を解放した。腰をずらし、細い脚を持ち上げる。マンションに着くなり散々指で掻き回したそこはもう既にぐしょりと濡れて、柔らかくほぐれていた。
「ア──」
限界まで立ち上がっていた自身を、大塚は一気に奥まで突き入れた。衝撃で弓なりに仰け反った冬の体をきつく抱き締め逃がさない。
「あ、あ、っ、ああああ…っ」
「…冬」
「は…、ふか、いぃ…ぃ…!」
目尻から零れた涙を吸い取り、ゆっくりと揺さぶると、冬は甘い声を上げた。
「あ、あ、っ、ぁ」
この声は自分だけのもの。
この体も心も、俺のものだ。
他の誰にも渡せない。
何ひとつ。
何も欲しいと思えなかった自分が、たったひとつ欲しいと思ったもの。
「あーっ、あ、んんっ、あ」
脚を抱え肩に担いだ。折り曲げた体、細い腰を掴み奥へ奥へと大塚は律動を送る。熱くぬかるんだ冬の中を突き上げる。固くしこった前立腺を引っ搔くように、そこを狙って前後に細かく揺すると、冬は大塚の胸を腕で押し返しながら、逸らした喉から高い声を上げた。
「ひ、や、あっあっ、いや、いあああっ…!」
肩に縋りついた指先が爪を立て肌に食い込む。その痛みすらも大塚を煽る。二つに折りたたんだ体を圧し潰すように体重をかけ、奥を暴く。ひっきりなしに喘ぐ唇から零れた唾液を舐めとり、塞いだ。
「ん、…っ、んん…っ」
差し入れた舌で腔内を蹂躙する。逃げる舌先を吸い、甘く嚙んだ。やがて冬が大塚の動きを追うように舌を差し出してくる。
たまらない。
大塚は口づけを解かないまま、ゆっくりと腰を引いた。抜けてしまうぎりぎりまで、そしてまた一気に奥まで突き入れた。それを何度も繰り返す。そのたびに冬の体はびくびくと跳ね、しがみつく力を失くした腕がくしゃくしゃになったシーツの上を頼りなく彷徨った。
「…あ、ひ、っ…あ、…ゃ…」
「冬、ふゆ…、…」
「あ、…、あ…、っ、も」
感じすぎてつらいのか、上へと逃げる体を大塚は引き戻した。
ぐりぐりと奥の行き止まりに先端を押し付け、その先を強請る。もっと、もっと、もっと──欲しい。
「ふみ、唯さ…あ、あ、」
大塚が何をしたいのか分かったのだろう。
だめ、だめ、と冬は涙目で大塚を見上げている。
「冬」
大塚は冬の頬を両手で包み、じっと目を合わせた。
「俺が怖い?」
「…、あ」
「俺が怖いか?」
ゆっくりと首を振った冬の目から涙が溢れ出した。零れたそれは大塚の指を濡らし、落ちていく。
その手に冬の指が触れた。
「こわくない…」
手の甲を撫でた指先がゆっくりと伸びてきて、大塚の目尻に触れた。たどたどしい指先は探るように瞼に触れ、頬を辿る。
「…全然、こわく、ない…」
「──」
「なんで…?」
こんなに優しいのに。
大塚は息が止まりそうだと思った。
「あ…っ!」
身を屈め、弄りすぎて赤く腫れた乳首を噛んだ。びくりと跳ねたときを狙いぐっと腰を押し込んだ。声を上げ続ける冬の体を抱きしめ、目を合わせた。
「俺を見て」
「あ、あ、あ、っ…っ、い、あ、っ…あ」
「冬、俺を見ろ」
「だ、め、だめ、え…」
ぶるぶるとかぶりを振る冬を腕の中に閉じ込めて大塚は強く穿った。
「あ、──ひ」
「好きだ」
薄く平らな腹の奥から潰れたような音がした。ぐぽりと先端が奥に入り込む。
「…ッ」
「い、いあ──いく、イ──」
ひゅっ、と短く息を吸った冬が弓なりに仰け反ってがくがくと震えた。絶頂に収縮した内部が大塚を締め付ける。歯を食いしばりそれに耐えた。合わさった体の間が濡れる感触に脳が灼ける。もうだめだ。大塚は痙攣する冬の体を強く抱きすくめると、爛れたように熱くうねる奥へ目掛けて精を解き放った。
「っ…あ、!ああ…っあー…っ」
「…してる」
愛してる。
こんな言葉では伝わらないほどに。
日も暮れた暗い部屋の中。
涙の膜で覆われた冬の目には、ゆらゆらと揺れる大塚が映っていた。
きっと、あのときからもう、こうなることは決まっていたのだ。
晴れた日の結婚式場。花の咲く庭園。
あの日、あの場所にいなければ出会うことのなかった自分たちを思う。
愛おしさを、誰かを守りたいと思うことのないまま、生きていったのだろうか。
彼に会わなければ。
「好きだ、すきだ…、冬」
彼を知らずにいた頃にはもう戻れない。
きりのない欲望が波のように押し寄せてくる。満ちていく心の中。本当の自分は我が強く独占欲も強く、執着も人一倍だ。誰にも触れられたくないし、誰にも触って欲しくない。誰にも──
それに何の違いがあるというのだろう。
あの男と変わらない。
きっと本質は何も変わらないのだ。
ただひとつ、違うものがあるとすれば…
「好きだ」
耳元で囁くと、冬が大塚の首に腕を回した。柔らかな舌先に汗の浮いた眦を舐められ、息が止まる。
「おれも…、好きだよ」
伝わる言葉が振動になって胸に響く。合わさった肌の奥に感じる互いの鼓動がゆっくりと重なって溶けていく。
ゆらゆらと揺れる視界の中にその言葉ごと閉じ込めてしまいたい。
ずっと、傍にいて欲しいと願う。
「……ああ」
年が明けたら一緒に住みたいと、いつ切り出そうかと思いながら大塚は再び冬の唇を塞いだ。
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