炎火

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紫黒が炎を消す地響きの様な音を背中に聞きながら、琥珀は幸成の元へ走り出した。 しかし、その速さはいつもより格段に劣っていた。 普段ならすぐに塞がるような小さな傷でさえ、身体がそれに手間取っている。 全ての感覚も鈍っているのか、黒曜に言われるまで僅かにする匂いに惑わされたまま、それがあの男の策略だなどと気付きもしなかった。 恐らくあの男は此処になど初めから来ていなかったのだ。 何人もに自らの匂いの着いた羽織を与え、自分がいるように装っていた。 自分を幸成から引き離す為に……。 どうやって隠世へ行くつもりかは分からないが、そこで待っていると分かる。 数多の人間を殺し、傷だらけになった自分を捉えるか……もしくは殺し……幸成を手に入れる為に。 ───無事でいてくれ……幸成…………。 僅かに動かすだけで激痛が走るだろう程の傷を負ったまま、美しかった銀毛は見る影も無く、黎明の月すら濁らせる様な血で染まった紅い獣が、残夜の中走り抜けた。 開け放された障子から冷たい風が吹き、血塗れになった着物をひやりと冷たいものに変えた。 纏わりつくそれにも、自分の荒い息遣いにも苛立つ。 痛みは差程感じない。 しかし着物を濡らす、幾筋も負った傷から流れ落ちる血も、それを冷やし体温を奪う風にも意識が朦朧とし始め、短刀を握る手が僅かに緩んだ。 「先程までの威勢はどうした?幸成」 馬鹿にした様な口振りに、幸成は目を細め柄を握る手に力を込めた。 「お前が倒れたら……餓鬼共は誰が守る?」 「………黙れ……」 煽る様に笑う成一郎の顔を、幸成は睨みつけた。 しかし浅くなった呼吸が、その一言を口にするだけで余計息を荒くした。 今でも翡翠が牙を剥いているのが分かる。 自分が倒れたら間違いなく翡翠は戦おうとするだろう。 腕の中の意識を無くしたままの蒼玉と、震える蛍の姿がそれを止めているだけだ。 自分の血がぽたりぽたりと床に落ちる音に、一瞬目の前が揺らぎ、幸成は立つ足に力を入れた。 あとどれ程立っていられるだろうか……。 傷だらけの自分と比べて、成一郎には最初の一太刀、たった一箇所肩に傷を負わせただけだった。 「……翡翠…」 目を成一郎へ向けたまま、幸成は口を開いた。 「蒼玉と蛍を連れて逃げろ」 その言葉に自分を見据える顔がニヤリと笑った。 「ヤダッ!おれも一緒に……」 「──翡翠ッ!」 翡翠の声を遮ると、幸成は深く息を吸った。 此処へ来ているのが成一郎独りとは限らない。 自分が守り通せるなら側に置いておきたかった。 しかし……自分に出来るのは精々あと僅かな時間、成一郎の足を止めることくらいだ。 「…………心配するな翡翠。すぐに後を追う。その間……蒼玉と蛍を守れるな?」 「……でも……」 昔から何度も兄の足元に膝をつき、苦汁を舐めてきた。 侮蔑されるのにも、蔑まれるのにも慣れている。 だから何故…… 今はこんなに腹が立つのか解らなかった。 見慣れた笑顔が 『お前には何も守れない』 そう言っているようで無性に腹が立つ。 「──行けッ!翡翠ッッ!!」 叫びながら幸成は再び、成一郎の懐を目掛け床を蹴った。 刃音が響く中、翡翠は唇を噛み締めると立ち上がった。 「行くぞッ!蛍!!」 蛍の震える手を握り、幸成を振り返らずに走り出した。 いつもは気丈で落ち着いている蛍の震える姿にも、幾つもの傷を負い、それでも立ち向かって行った幸成の背中にも、溢れそうになる涙を堪えた。 それに腕の中の蒼玉の息遣いがだんだん弱くなっている。 ───助けて琥珀ッ!……早く…………戻ってきてよ!!…… 堪えても溢れる涙が頬に伝い、それでも翡翠はただ必死に走り続けた。
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