炎火

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「───随分遅かったではないか……」 障子の向こうの人影に、成一郎は不機嫌なのを隠しもせず口にした。 「…………あんたがどこまでやるのか気になってさ……」 白姫は手にしていた小さな香炉を床に置くと、不愉快そうに袖の匂いを嗅ぎ、眉を顰めた。 「匂い着いちゃったじゃん……」 そう言いながらも視線は成一郎の腕の中で意識を失う幸成を見ていた。 山で『神殺し』が行われているかの様に装い、そちらに気を引いてから成一郎を“隠世”へ連れてくる手筈になっていた。 そして本来ならもっと早くに香を焚き、幸成の意識を惑わせる策であった。 「……あーぁ………こんなにしちゃって……」 身体のあちらこちらに傷を負い、着ている着物もそれが元からの模様だった様に血が赤黒く染めている。 「…これ……死ぬんじゃない……?」 「幸成は死なせん」 「………………本気で琥珀の血肉を食べさせるつもり?」 切られた着物から覗く胸の傷に白姫の指が伸ばされ、しかし触れはせず躊躇うようにその指を戻した。 あと暫く放っておけば、幸成は間違いなく死ぬだろう。 死んでしまえば琥珀の血を飲ませようが、肉を食わせようが、戻ることなど無い。 ───これが…………ぼくの望んでいたことだ……。 「お前が俺に教えたのだろう?“本当の神殺しのやり方”を………今更後悔か?」 幸成を見つめていた瞳が僅かに曇った。 確かに教えた。 初めて成一郎と会った夜……。 聞かれるままに全て答えていた。 正確には意識とは関係無く、口だけが動いていた。 どうすれば“神を殺す”事が出来るか……。 自分の羽織を脱ぎ幸成の身体に掛けながら成一郎がクスリと鼻で笑った。 「所詮…獣にも及ばぬ下衆な生き物だな……」 「……なに……!?」 「そうであろう?己の信念すら貫き通せんとは……獣ですら獲物を咥えたら、そう易々と離さんぞ……?」 「───お前……」 さして関心すら無い様にそう言った成一郎に白姫は拳を握りしめた。 挑発している訳では無いと解る。 恐らく本気でそう思っているのだ。 だから口にしただけに過ぎない。 しかしそれが、人間の言う事に従い、既に傷付いていた白姫の自尊心を一層抉った。 「……ぼくをあんまり馬鹿にするなよ………?お前なんか……いつでも殺せる」 怒気を抑えた、しかし今までとは確実に違う白姫の声が響いた。 嘘では無い。 過去人間の命など何度も奪ってきた。 現に膝元であった『神殺し』でも、殺した人の数は十や二十などでは無い。 「……おかしなことを言うな……?お前は餌にもならないその辺の雑草を馬鹿にするのか?」 「───貴様ッ……」 振り向き憐れむ様にわらった成一郎の首に、白姫の手が伸び鋭い爪が皮膚を破いた。 怒りで人の姿を保って居られなくなったのか、肌に鱗が浮かび上がり、口からは双頭の紅く長い舌が覗いている。 ───“馬鹿にするにも価しない存在”だと言うのか!?……このぼくを!?…… 成一郎の皮膚に爪が食い込み、紅い血が溢れ出した。 「……俺を殺すか?」 それでもなお静かに笑っている成一郎に白姫の動きが止まった。 止めた訳ではなく、動けなくなっていた。 成一郎の瞳の奥の闇が肌を伝って入り込んで来るような錯覚に襲われ、白姫は慌てて首から手を離した。 触れていることすら恐ろしく感じた。 「それが獣以下と言うことだ」 そう言って首の血を手の甲で拭うと、何も無かった様に腕の中の幸成を愛おしそうに見つめる男の顔から白姫は視線を逸らした。 ───違う……獣だって恐らく手を離す……。 奥底の本能が告げる。 触れるなと…… その男は危険だと………。 ───気付かないのは………人間くらいなもんだ…………。 そう胸の中で吐き捨てた白姫の目の端で、成一郎は満足気に笑った。 幸成が再び腕の中に戻ってきたのだ。 後は真神の血肉を口にさせれば全て上手くいく。 ───母上を奪ったあの男ももういない……。 幸成の顔に付いた血を指で優しく拭うと、成一郎は躊躇うこと無くそれを口へ入れた。 幸成を一度手放したからこそ解った。 自分の心からの願いを。 真神の身体を手に入れ、菊池の家を揺るぎないものにする。そして母を奪ったあの男に取って代わることこそ望みだと思っていた。 母の仇を取ることこそ……。 しかし今はそんな事に微塵の興味すら持てなかった。 気付いていなかっただけで、母は幸成となって傍にいたのだ。 ───幸成が産まれたあの日、だから母上は俺に言ったのだ……。 辛そうに息をする幸成の身体の体温をこれ以上下げない様に、成一郎はそっと抱きしめた。 まだ赤ん坊だった幸成をそうしたように。 ───金も……地位もいらない……幸成さえいれば……。 近付いた顔が幸成の唇に触れ、舌が乾き始めた血を拭った。 甘くすら感じられる幸成の血の味を舌で楽しむと、白姫など目に入らないかのように愛しい者を抱き上げ庭へと向かった。 「……早く来い……琥珀」 楽しみでも待っているかの様な笑顔が、先程より微かに明るくなった空へ向けられた。
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