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上弦の月が西の空に傾き始め、琥珀は一人手酌で酒を酌んだ。
毎夜歌われる数え歌が、少し前から耳を撫でるのに身を任せ、ぼんやりと庭を眺めている。
記憶が無くなった幸成に、あの数え唄だけはすっかり覚えていた翡翠達が口移しで教えたのだ。
何度目かの旋律が繰り返され、少しの切れ間の後、不意に今までと少し違う響きに変わった。
以前はよく聞いていた。
「なんの唄か」と聞いた時、少し困ったように「子守唄」だと……「昔唄ってもらっていたのを思い出した」と言っていた。
あの唄を幸成の声が、少したどたどしく唄っているのだ。
琥珀の瞳が揺れ、無意識に声のする方へ視線を向けた。
この唄を聞いたのは“あの日”以降初めてだった。
自分が知る限り、翡翠達が幸成に教えていたのは“数え唄”だけだ。
そしてあの日より前の記憶は無い筈…………。
それなのに何故幸成は知らない筈の“子守唄”を口ずさんでいるのか解らない。
もしかしたら知らない間に子供達の誰かが教えたのかもしれない……。
そう思いながらも、耳触りの良い柔らかい声に締め付けられる胸をそのままに、琥珀は静かに瞼を閉じた。
三人の穏やかな寝息が耳に届き、いつもならホッとするその音が、今日は自棄に幸成を落ち着かなくさせた。
あの後翡翠を何とか風呂に連れ戻し、それでも琥珀への怒りで不機嫌だったのを、玻璃の笑顔がやっと翡翠にも笑顔を戻した。
翡翠達を寝かせたら来てほしいと言われていたが、やはり怖い……。
幸成は身体を起こし小さく溜息を吐くと、もう一度三人の寝顔を眺めた。
「いくらお前でも……幸成はやれねぇ……」
自分の聞き間違えでなければ、確かに琥珀はそう言った。
しかし……その意味は…………
この半年、琥珀がどれほど優しいか、愛情深いか、ずっと見てきた。
自分にも、触れることも傍に呼ぶことすら無かったが、常に気にかけ気遣ってくれていた。
───もし…………俺を気遣い……言ってくれた言葉だとしたら…………
幸成は枕元に置いてある櫛を胸元に忍ばせると、大きく息を吸った。
───けど……逃げていても仕方ない。
意を決したように立ち上がると、穏やかな寝顔を振り返ることなく、静かに部屋の襖を閉めた。
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