二匹の狼

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『……全く……酔狂な奴だよ……』 山神を見送ると黒曜が呆れたようにボソッと声にしてから、立ち尽くしている幸成を睨みつけた。 『……俺なら人間の……しかも雄とやるなんて真っ平御免だ…………おい糞餓鬼、俺の背中で一声でも鳴いてみろ……その場でお前を食い殺すからな』 気に入らないのを隠そうともせずそう言うと、呆然と立ち尽くす幸成へ背中を向けた。 以前何度か父に乗せられた馬よりも早く、空を飛ぶように走り続けた黒曜の背から落とされないように、幸成は必死でその黒毛にしがみつき固く目を閉じていた。 『声を出すな』 そう言われていたが、正直それどころでは無かった。 何しろ馬のように手網がある訳でもなければ、長く見える毛並みも、掴まるにしては柔らかく心許なく感じられたからだ。 すると速さが急に緩み、着物をバタバタとはためかせていた風も止んだ。 しかし幸成はそれでも黒曜にしがみついた手を緩めずにいた。 揶揄っているのか、幸成を振り落としたいのか、ここに来るまでも何度か風も揺れも止み、気を緩めると凄い勢いでまた走り出す……そのような事を黒曜は繰り返していた。 『手を離せよ。糞餓鬼』 黒曜の身体がブルブルと勢いよく震え、幸成の身体を無理に振り落とした。 「───うわッ……」 ドスンという音と共に地面に尻もちをついた幸成の瞼がやっと開き、その瞳に幾つもの紅い彼岸花が咲き誇っている美しい庭が映しだされた。 「…………ここは…………」 朱色や真紅や……彼岸花が美しく揺れている。 『…………奴の家だ……』 「……………家…………?」 黒曜の声に辺りを見回すと、確かに人間が住むのと何ら変わりの無い建物が目に入った。 広く長い縁側の障子の向こうに、部屋が続いていると分かる。 しかしその屋敷とも言える建物に、あの大きな山神が暮らしているとは思えない。 『……その障子の向こうが寝所だ。……そこで待ってりゃいい』 「───寝所って……」 突然連れて来られた屋敷で、家主も居ないのに勝手に寝所に行けと言われても………… 幸成が慌てて振り返ると黒曜の冷たい瞳が突き放すように逸らされた。 『すぐ脱げるようにしとけと言われてたろ』 そう言うと面倒臭そうにブルブルと身体を震わせ 『クソッ……人間臭ぇ……』 眉間に皺を寄せブツブツと文句を口にしている。 『後はテメェで考えろ。……俺はお前をここに連れていけと言われただけだ』 吐き捨てる様に言った黒曜の蔑むような視線が向けられる。 『……精々奴を喜ばせて殺されないように頑張んな』 嫌味と共に口の端で笑った。 『男を喜ばせるのが得意なんだろ?』 「───なにを……」 『お前の身体から僅かだが“腎水(じんすい)”(精液)の匂いがした』 黒曜の馬鹿にした言葉に幸成の顔が強張り恥ずかしさから紅く染まった。 昨夜散々吐き出された兄の欲望のことを言っているのだ。 『ここに来る前も、男に抱かれてきたんだろ………さては──』 何も言い返せないでいる幸成の顔に近付くと 『……人の“なに”じゃ物足りなくなって、奴にケツを振りに来たか?』 意地悪く笑う黒い獣を睨みつけた。 頭に血が上っていくのが分かる。 奥の歯がギリッと音を立て、思わず懐剣に手が伸びそうになるのを、幸成はグッと固く手を握りしめた。 『どうした……?俺が気に入らないか?……それとも、身の内を見透かされて悔しいか?』 銀の瞳が幸成を挑発するように鈍く光る。 『そこいらの坊主相手に修道でも生業にしていたのだろう?』 「─────ふざけるな…………」 思わず口からついて出ていた。 誰が好んで兄に犯されるか………… 誰が好んで……化け物の伽などするか………… 「──誰が好き好んで……こんなッ……」 『……無理強いされているか?…………なら何故逃げ出さない!?』 黒曜の牙が剥かれ、幸成にグッと近付いた。 『嫌なら嫌だと逃げ出せよ。──お前は自分で選んでんだよ。嫌だ嫌だと言いながら結局逃げ出す勇気が無いだけだ。───違うか!?』 黒曜はただ挑発しているだけだと解る。 自分が逃げ出せばそれを理由に、刃向かったとすればまたそれを理由に殺したいのだと。 しかしその言葉に幸成は先の言葉を喉に詰まらせた。 この黒い獣の言う通りだ。 昨夜も兄に犯されるのが嫌なら、恥も外聞もなく泣いて叫べば良かったのだ。家人が駆けつける程に。 それを自分は黙って受け入れた。 兄に犯されそうになっている自分を、恥じていた。 誰にも知られたくなかった。 今回のこと…… 本当に嫌なら黙って一人家を出れば良かった。 怖かったのだ。 これ以上父に嫌われるのが……。 役立たずだと言われることが……。 幼い頃からずっと疎まれていたのに、それでもまだ……それ以上嫌われたくなかった。 口を固く結び、目を逸らし俯いた幸成に黒曜が口の中で『チッ』と音を立てた。 『…………腰抜けめ……』 心底侮蔑したように幸成に向けて吐き捨てると、来た時と同じく風の様な速さで彼岸花の庭を後にした。
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