爺ちゃんの時計

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爺ちゃんの時計

 賢一は、ベッドで寝ていたが、新一に気が付くと軽く手を挙げた。その手に軽くタッチして、いつもの挨拶をした。数年前に、ハイタッチを教えてから、爺ちゃんとはこの挨拶をする。親父とは絶対にできないし、したくもないが、そういうノリのいい爺ちゃんが好きだ。              「爺ちゃん、大丈夫?」  いつの間にか新一の目から溢れだした涙が頬をつたっていく。 「おいおい新一、俺はまだ死んじゃいないぞ」  賢一は笑いながら、リモコンのボタンを押し、電動ベッドを起こして背もたれにした。 「ほんとに大丈夫なの?」 「ああ大丈夫だ。何とも無い。新一、わざわざ来てくれてありがとな」  そう言う賢一の目にも薄っすらと涙が浮かんでいた。 「なあ爺ちゃん。俺、将来の事とか、まだなんも考えらんなくてさ。別にやりたい事もないし、頭も悪いし」  そんな事を言うつもりは無かったがつい口から出た。ただ、死期がそう遠くないであろう爺ちゃんと、何かちゃんとした話をしたいと思ったのだ。  しばらくの間の後、賢一が口を開いた。 「浩一は警察官になった。あいつは医者になんか、なりたくなかったのに、俺に気を使って医学部を受けて二浪した。医学部に受からなかったから、それが幸いして、なりたかった警察官になれたが、あいつには悪いことをしたと思っている。当時は浩一の気持ちが分からなかった」                       「親父は今、好きな事やってるからいいんだよ。家にだってほとんどいないし」  俺はニートだ。会社を辞めた事を爺ちゃんはまだ知らない。 「お前はまだ若い。今からでもやりたい事を考えればいいし、何も無いからといって悪いわけじゃない。家族の為、大事な人の為にしっかり頑張って生きる事が重要なんだ。ただ、母さんには迷惑をかけるなよ」  そう言って賢一はサイドテーブルの引き出しを指さした。  引き出しを開けると、いつも爺ちゃんが使っていた万年筆と懐中時計が目に入った。古い写真の束もある。奥のほうには綺麗な包装紙に包まれた小さな箱があった。 「浩一は昔、子供の頃にその万年筆を欲しがってな。爺ちゃんが若い頃から使っているものだが、俺が死んだらそれを浩一に渡してくれ」 「なに言ってんだよ。まだ死なないって言ったろ」  新一の言葉を聞き流して賢一は続けた。 「包装してある箱は腕時計だ。幸恵さんに渡してくれ。幸恵さんは、看護師として働きながら浩一の嫁として、お前の母として頑張り、こんな老いぼれにも、とてもよくしてくれる。感謝している。そんなに高いものじゃないが爺ちゃんのせめてもの気持ちだと伝えてくれ」 「だから爺ちゃん! まだ死ぬわけじゃないし。それに、そんな事自分で言いなよ」 「照れくさいだろ。渡すのは爺ちゃんが死んでからでいい。まだ言うなよ。お前に託す」 「いいけどさ。爺ちゃん……まだ死ぬなよ」 「なあ新一、爺ちゃんは充分生きた。長生きしすぎた。本当は爺ちゃん、十九歳の時に死ぬはずだった」 「戦争?」 「ああ、戦争だ。爺ちゃんは海軍の特別攻撃隊、回天部隊の隊員だったからな」  賢一の顔が少しだけ険しくなった。 「魚雷だっけ? 小さい頃、爺ちゃんに聞いたような記憶もあるけど、ごめん、よく覚えてないや」 「そうだな、お前には詳しく話した事はなかったな。神風特別攻撃隊。ゼロ戦の特効が有名だが、回天は海の特効隊だ。爺ちゃん達は昭和二十年七月十四日に山口県の大津島にある基地から潜水艦で出撃した」  賢一はしばらく黙って窓の外を眺めた後、また話し始めた「そして八月四日、とうとう満を期して自分の的に乗り込んだのだが、爺ちゃんの的は油圧の故障で出撃出来なかった。その時はとても悔しかったよ。潜水艦が大津島に帰港したのは八月十二日、終戦の三日前だ。で、生き延びた」 「そんなの悪いのは戦争だろ。爺ちゃん死ななくてラッキーだったんだよ」 「勿論だ。だが、爺ちゃんは回天隊員だった。必ず死ぬ運命だったのに助かったんだよ。爺ちゃんが医師を志したのは終戦後だ。もう誰も殺さなくていいし、自分も死ぬ必要がなくなった。なら、助かったこの命で人を助けようと思った」 「爺ちゃん凄いな。俺なんて……」 「自慢話をしているわけじゃないぞ。爺ちゃんは、この世で新一が一番かわいい。お前は優しい。優しさは強さだ。人間、持って生まれた優しさってのは何にも勝る。百年近く生きたじじいが言うんだから間違いない」 「……」 「そこの懐中時計を取ってくれ」  新一は引き出しの中から古びた懐中時計を取り出した。 「それはお前にやる。爺ちゃんの宝物だ」 「そんな大事なもの俺なんかが貰えないよ」  それは真鍮製の手巻き懐中時計で、経年変化により黄色く変色した文字盤には精工舎と印刷されている。ケースの裏側には、志という文字が彫られていて、その左側にはえぐられたような大きな傷が付いている。それ以外にも小さな傷が沢山あるが、よく磨きこんである。 「そんな大そうな物じゃない。戦時中に上官から頂いた時計だが価値ある品じゃない。でも爺ちゃんに七十年以上も付き合ってくれた時計だ。捨てられてしまうのは忍びないし、お前に貰ってもらいたい」  そう言うと、安心したように賢一は目を閉じた。 「おい爺ちゃん、爺ちゃん」  新一は爺ちゃんの手を握りしめた。 「生きとるぞ、早とちりするな」  賢一は笑った。 「頼むよ爺ちゃん。脅かすなよ……そうだ、爺ちゃん、缶珈琲好きだろ。母さんが車貸してくれなかったから、あまり持って来れなかったんだけど」  そう言って新一はリュックから十本の缶コーヒーを取り出した。その内の五本を備え付けの冷蔵庫に入れ、残りはサイドテーブルの端に並べて置いた。 「おお、ありがとう。じゃあさっそく一本開けてくれ」 「冷えてないよ」 「構わんよ」 「なあ爺ちゃん、この時計の事教えてくれよ。宝物なんだろ。戦争の事、聞きたいんだ」新一はプルトップを開け、生ぬるい珈琲を爺ちゃんに渡した。 「旨いな。この甘ったるい珈琲がこの世で一番好きだ。爺ちゃんが医学校に合格した日、爺ちゃんに勉強を教えてくれた先生が、珈琲をご馳走してくれた。先生と言っても本物の先生じゃないが頭のいい人でな、爺ちゃんより少し年上の女性だった」 「その頃は珈琲って珍しかったの?」 「珍しいって程でもないが、戦後の品不足の時だったから贅沢品だった」 「そうだったのか」 「爺ちゃん、珈琲飲むのはその時が初めてだった。香りはいいのに苦くてな。思わず吹き出したら、その先生が笑いながら角砂糖とミルクを別に注文して、たっぷりと、わしの珈琲カップに入れてくれた。そしたら苦い珈琲が魔法のように美味しくなってな。今でも思い出す」  そう言うと賢一は目を閉じた。きっと当時を思い出しているのだろう。 「その先生ってのは?」 「もうとっくに亡くなったよ。爺ちゃんが医者になった年にその先生と結婚した。幸せだったよ」 「マジかよ……」  爺ちゃんだけじゃなく婆ちゃんも頭がよかったのか。親父も医学部には受からなかったが、一流大学を出ている。どうして俺には遺伝しなかったんだよ…… 「その時計の事だったな。戦争の話だぞ。お前そういうの好きじゃないだろ」 「戦争は良くないと思うけど、爺ちゃんの話を聞きたいんだ」 「少し長くなるぞ」 「爺ちゃんが大丈夫なら話してよ。戦争に行く事になった理由から、帰ってくるまで」  新一も生ぬるい珈琲を開けて一口飲んだ―やっぱり冷えていた方が旨いな…… 「一度ちゃんと話を聞いておきたいんだ」  賢一は嬉しそうに何度も頷き、ゆっくりと昔を思い出すようにして話を始めた。
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