Ⅰ エルフリーデ 1

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 ジークリンデは毎日膨大な量の手紙を書いている。  公文書ばかりではないのだ。西方世界の諸国に無償の支援を求める手紙。債務の繰り延べを請う手紙。様々な債権と引き換えに、武器や食料を求める手紙。  派兵を求めることはしないし、断ることすらある。支援と称して入り込んだ軍隊が、どさくさ紛れにフロイデンベルクを乗っ取ることも、ないとは言えない。  そもそも騎士階級は、平民や傭兵の指揮官の下に着くことを好まない。そうした不満が、軍内部に亀裂を生むかもしれない。  前線に立つばかりが戦争ではないのだ。安定した物資の補給と人の補充。ジークリンデもまた戦っているのだと、インクの染み付いた指先で見もせずに酒盃(ゴブレット)を掴み、ワインを飲んで不味そうに顔をしかめる彼女を見て、エルフリーデは思う。    執事に着席を薦められ、バルタザールと並んで長椅子に腰掛けてからしばらく経つ。  紙をめくる音。ペン先が紙の上を走る音。遠い砲声。地響き。  やがて女王は顔を上げた。年若い、黒髪の、どちらかと言えば背が低くて可愛らしい印象の娘の、コバルトブルーの目元だけがじっとりと疲労をにじませていた。 「お待たせしました。ひさしぶりね、エルフリーデ。もう、何年も会っていないみたい」 「私もそんな感じがします。いつかまた、ゆっくりとお話できるようになるといいわね」  歳の近いジークリンデとは、幼馴染のように育った。ジークリンデが戴冠し、エルフリーデが結婚して、お互い忙しくなると、しだいに距離ができた。エルフリーデはまだ、ジークリンデが女王だという事実に慣れていない。  ジークリンデは執事を呼び、ワインを下げさせ、客人にもっと良いものを振る舞うように言う。そしてエルフリーデたちの方に向き直り、本題に入りましょうか、と言った。 「こちらは、バルタザール・バウムゲルトナー氏。ドミニコ修道会所属の、異端審問官です」 「お噂はかねがね」 「お目にかかれて光栄です、陛下」  バルタザールは跪き、ジークリンデの手にキスした。  立ち上がったバルタザールが、女王の眼をまっすぐに見つめる。お互い無言のまま、奇妙にはりつめた時間が流れた。 「あらかじめ頂いたメモから想像するに、異端審問所の開設をなさりたい、ということですか?」 「仰るとおりです。ケルントナー通りの南の端に、古い聖堂があります。あの建物と、土地の使用権を頂きたい。もちろん期限付きで結構です。加えて、当座の活動資金として週二千フローリン程度の支援を頂ければ、と」 「土地も聖堂も公有地ですので、私の権限で利用許可証を出すことはできます。でも、そこまでですね。市参事会の同意がなければ、異端審問活動は認められません。活動資金についても、市の予算のなかで配分することですので、私に約束できることではありません」 「理解しています」 「ドミニコ修道会は今、組織的な異端審問を行っていませんね。今回の発案は、どちらからの指示ですか」 「教皇でも、ルーアン大司教でもありません。私は一介の修道士に過ぎません。これは、個人的な正義感で行っていることです」 「素晴らしい。立派な志をお持ちですね」 「最低限、土地さえお貸しいただければ、あとはどうにかできる自信はあります。国家公認という形がいただければなお良かったのですが、お立場は理解できます」 「実りのある話し合いができて、嬉しく思います。いずれ戦争が終わったら、ゆっくりお話しましょう、エルフリーデ」 「え? あ……はい!」  あわてて立ち上がった。  つかのま見つめ合ったが、ジークリンデの眼はただ疲れているだけで、どんな意思も感情も伝えてこなかった。  底の読めない人になった。そう思う。  バルタザールは執事をつかまえて、振る舞われたワインの出来を褒めている。エルフリーデも飲んだのだが、どんな味だったかなんてまるで憶えていない。  言葉の上には何も現れなかったが、奇妙に緊迫したやり取りだった。           
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