Ⅰ エルフリーデ 1

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 前夜からの豪雨が、午後になっても続いていた。砲声も銃声も止んでいた。雨が、火薬を湿らせるのだ。  市民たちは、ずぶ濡れになりながら建物の修築を行っていた。  待望の食料がその日の朝になって届き、配給所も賑わっていた。  エルフリーデは館を出て、怪我人の救護施設を訪れていた。地下道の一件の生き残りから、直接情報を引き出すためであった。  もとは教会だった場所だが、今は礼拝は行われていない。崩れた屋根を、木材と帆布で補修してあり、雨水が帆布の先で滝のように流れ落ちている。ベッドはわずかしかなく、怪我人たちの大半は、床のうえに直に横たわっている。  うめき声と悪臭。ときおりの叫び声。  治療にあたっている者たちのうち、正式な医者の資格を持っている者はほとんどいない。  医師にしたところでその処置は乱暴なものだ。  血や汚物は、絶え間なく流れ出ている。拭き取るまもなく溢れ出るし、拭き取る意味もないほどに床に染み付いている。  エルフリーデは、護衛をつけていなかった。  教会はアーベントロート家のもので、館から目と鼻のさきだったし、傷病者ばかりの場所を訪れるのに、ものものしい警護は不要と思ったのだ。 「……みず……み、みず……」  あしもとの怪我人のかすかな声が聞こえた。見下ろすと左腕がない。包帯の巻かれた右腕だけが、溺れる者のように宙をさまよっている。目は見えていないようだ。ただエルフリーデの足音を聞いて、誰かいると思ったのだろう。 「誰か、この人に……」  指図できる誰かを探して周囲を見回して、エルフリーデは、はっ、とした。  医者もその助手たちも、皆汗だくで、慌ただしげに動き回っている。彼女の意を迎えるために待機している人間など、一人もいない。  あたりまえなのだ。ここはアーベントロートの館ではない。  自分でやろう。  そう決意し、水差しとコップを探して、遠くに視線を投げた。  その時だった。  骨ばった熱い指に、不意に足首を掴まれた。  悲鳴など出なかった。エルフリーデは呼吸の仕方を忘れた。  足元の怪我人が、無事な方の手で彼女の脚をつかんでいる。  怪我人に似つかわしくない、万力のような力だ。 「……どうして、水を……くれないんだ……」  かすれた囁きのようだった声が、混濁した叫び声に変わる。   見えていないと思っていた瞳が、爛々と光る。  血の色のように真っ赤に。  肘から切断されていた左腕の、包帯を巻かれたその先端が蠢く。汚れたままの包帯の下に、無数の蛇がいて、それがいっせいに目を覚ましたかのようだ。  エルフリーデの視界に、煤けた天井がとびこんできて、尻と背中に痛みが走った。  仰向けに転倒した。そう気づくより早く、赤い目をした怪我人が、ただの怪我人だと思っていた何かが、彼女にのしかかってきた。  血と膿を撒き散らしながら、左肘の包帯が裂けた。  軟体動物の触手めいたものが飛び出してきて、視界いっぱいに広がった。
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