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その後数分のことは記憶が霞んでいる。
素早い影のようなものが視界に飛び込んできて、触手をかき消した。いつのまにか天井が見えなくなっていたが、足が地面を踏んでいる感覚も乏しかった。エルフリーデは激しい勢いで振り回されると同時に、やさしくしっかりと抱きしめられているような、矛盾した感覚を味わっていた。誰かの体温。背中から腹にかけて触れている筋肉の固さ。ときおり視界を舞う黒髪。
そして目の前で破壊されていく、傷病兵だったもの。
白い閃光が視界を染めた。誰の手によって何がなされたのかもわからないうちに、エルフリーデを襲ったものは消え失せていた。
「失礼しました。お怪我はありませんか」
すぐ耳元で穏やかな声が聞こえた。
振り向いて顔を上げると、美しいすみれ色の瞳がエルフリーデを見下ろしていた。そこに彼女自身の顔が映り込んでいるのがわかるほどの近さだった。
血の臭いが、彼女を我に返らせた。
「大事ありません、放していただけますか」
「立てますか?」
「大丈夫です」
腰に感じていた腕の感触が消え、ぬくもりが遠ざかった。
この男は、片手で彼女を抱きかかえてかばいながら、あの化け物のようなものと残る片手で戦い、倒したということらしい。どのような方法でかは、わからなかったが。
「私は、アーベントロート家の当主アルブレヒトの妻、エルフリーデ」
「存じています」
この男も怪我をしていることに、この段階になってエルフリーデは気づいた。今の戦いでついた傷ではない。腹部に巻かれた包帯の下から、血が滲み出している。
「私はバルタザール。バウムゲルトナーの末裔です」
「かつてこの地域一帯の領主であった、バウムゲルトナーだというのですか」
「昔のことです。今は、ただの名前にすぎません」
「八十年前の革命で、旧王家につながる者は追放されたはずです。なぜあなたはここにいるのですか」
「マイアーホーフェンから、地下道を通って」
「何のために?」
「警告のために」
「警告?」
「これ以上の話は、この場ではできかねます」
「助けていただいた、お礼を言うのがまだでしたね。ありがとうございました。後で、使いのものをよこします。今は、おやすみになってください」
「そう言っていただけると、ありがたい」
バルタザールはそう言って微笑んだ。その笑顔がひどく魅力的なことに、エルフリーデは気づかないわけにはいかなかった。
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