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アーベントロートは貴族ではない。
ブライデンバッハ家やエーヴェルヴァイン家、そしてパーヴェルツィーク家が貴族ではないように、フロイデンベルクの四大名家と呼ばれる彼らはいずれも、ただ有力な市民であるというにすぎない。青い血と呼ばれる貴族王族の血は、一滴も入っていない。
アーベントロート家はマイヤーホーフェンの岩塩の採掘権を握っている。岩塩はこの時代非常な貴重品で、同じ重さの金と交換されると言われるほどだった。
エーヴェルヴァイン家は鉄の鉱山を所有し、ブライデンバッハ家は法曹界に強力な人脈を持ち、パーヴェルツィーク家は広大な農地と農奴を支配していた。少なくとも、戦争の前までは。
フロイデンベルクの議会は、一万フローリン以上の税金を収めている市民ならば誰でも出席でき、投票もできたが、四大名家はその議決に対する拒否権を持っていた。
女王は議場に臨席し、決められたことを裁可するだけだ。
革命後八十年で、いつのまにかそんな体制ができた。
もう、革命前のことを憶えている世代もいない。
今の体制が、かつてと比べてどれほど良くなったのか、疑問に思う者たちもいたが、それよりもまず、彼らは戦争を続けねばならなかった。
そしてもちろん、エルフリーデ達は、自分たちの正しさに疑いを持つことなどなかった。
エルフリーデが館に帰ると、リーゼロッテが待ち構えていた。
輝くような金髪をもった十七歳のこの少女は、夫アルブレヒトの妹、つまりは前頭首の娘だ。エルフリーデはその時代を知らないが、前頭首は生前、この娘を溺愛していたらしい。 リーゼロッテにはマイアーホーフェンに婚約者がいる。エーヴェルヴァイン家の有力者である三十すぎの男で、ただ有力であると言うだけの理由で決められた結婚で、お互いほとんど面識がない。エルフリーデの結婚とて似たようなものだったし、名家の娘の結婚と言うのはえてしてそんなものだったが、リーゼロッテは何かと理由をつけて婚儀を遅らせている。それが通ってしまう空気が、アーベントロートの家にはある。
「あら、お義姉さま、おかえりなさい」
救護施設で何があったか知っているぞという顔で、リーゼロッテは微笑んだ。
「思ったよりお元気そうで安心しましたわ」
そう言ってニコニコと微笑みながら、エルフリーデの腕をとりまとわりついてくる。歩きづらい。
「ナイトに救ってもらったんですって? もう噂になっていますわよ」
うっとうしいな、と思うが、エルフリーデは顔にはださない。
「ごめんなさいね、リーゼロッテ。ちょっと、びっくりすることが多すぎて、少し疲れているの。正直、少しのあいだ横になりたいの」
「お義姉さまのナイト、この館にお招きするべきよ。あんな薄汚い救護施設なんかに置いておくのは失礼だわ。きれいなお顔をなさっていたのでしょう? 私もその方と会ってみたいし」
「……そうね。それはいい考えね」
「そうでしょう! 南棟の二階のお部屋がいいわ。すぐに掃除させますわね!」
「……ねえ、リーゼロッテ、私、本当に疲れているの。だから……」
「私、さっそく、メイド長に指図してきますわ。救護施設にも迎えを出す準備をしなくちゃいけませんわね。ご心配なさらなくてもぬかりありませんわ。ここは、私の家なのだから」
(そうね、ここはあなたの家ね。それはいつも感じているわ)
エルフリーデはそう思ったが、もちろん何も言わずにいた。
リーゼロッテは踊るような足どりで去っていった。
彼女が遠くに去るのを確認してから、エルフリーデはひそやかにため息をついた。
救護施設での出来事を思い出す。
すみれ色の美しい瞳を持った男のことはわきにのけて、あの、化け物のような怪我人のことを思い出す。
何か、彼女の理解を越えたことが起こった。
警告、と、あの男は言った。
なんだろう。
廊下の真ん中で足が止まった。
リーゼロッテが去るのを待っていたかのように、メイドの一人が現れて、エルフリーデの腕を支えた。
「大丈夫よ、少し疲れているだけ」
「そんなふうには見えません」
メイドが言った。
メイドに支えられながら、自室まで歩いた。そして、少し眠った。
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