第一章 消えた家康①

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第一章 消えた家康①

「殿がいなくなった?」  本多平八郎忠勝が、口角の泡を吹き飛ばす勢いで叫ぶ。  日も落ちて久しいというのに、バタバタと城内を右往左往していた小姓の一人が、忠勝に着物の衿を絞められ詰められていた。    ここは、神君出生の地と謳われる岡崎城。神君誕生の折には、城の上に黒い雲が渦巻き、黄金の龍が現れたと言い伝えられている。令和の世では愛知県岡崎市に存在するこの城内では、いま水面下で一つの大事件が起こっているのだった。  その名城で運悪く忠勝に捕まってしまった可哀そうな小姓は、狼に食われる子羊のような表情で静かに震えていた。  のちに「徳川四天王」のひとりとなる、本多忠勝。  生涯57回の戦に参戦するも、かすり傷ひとつ負わなかったといわれる戦国最強の侍──である彼も、こと主君のこととなると冷静ではいられない。いや、主君に関することだけは、どうしても心乱さずにはいられないのだ。  それは忠義のなせるわざか、御恩に報いる為か、はたまた過保護によるものか、それとも別の理由があるのかは、16歳の忠勝自身まだ分かっていなかった。 「殿が消えたとは、どういうことだ」 「御膳をお下げするのを忘れていて……先ほどお伺いしましたら、お部屋はもぬけの殻で……」 「もう戌の刻だぞ!」 「しゅ、しゅみませんっ」  迫る鬼の形相に、頭のてっぺんから悲痛な声を上げる殿付きの小姓。  本多忠勝という男は本来、整った顔立ちをしている。目尻の切れ上がった大きな瞳、きりりとした男らしい眉、すっと通った鼻筋に、形の良い少し厚めの唇。高めに結った長めの髪は、風になびく艶やかな黒髪。  だが、いかんせん真剣になればなるほど、顔が怖かった。  そして、小姓にとって間の悪いことに、この広い渡り廊下を行き交う者は他に誰もいなかった。殿が自室から姿を消したことは、まだ一部の家臣にしか知らされていなかったからである。  家柄も良く、若武者たちの間では一番の出世頭ともいえる忠勝(ただし、殿以外への威圧感が凄い)と、たおやかで色白のまだ少年といってもいい年頃の殿付きの小姓。誰が見ても、どちらに軍配が上がるかは明らかであった。  そう遠くない未来、天下無双の侍となる忠勝が唯一冷静さを失い、この小姓を含め多くの家臣を右往左往させる殿とはもちろん、この岡崎城の主、松平家康──のちの徳川家康のことである。 「平八郎殿、こんな所にいらっしゃったか」  青い顔をした小姓の真後ろから、ぬうっと背の高い影が現れた。  その者の名は榊原康政。  忠勝と同い年の良きライバルであり、彼ものちに「徳川四天王」の一角に座することになる有能な逸材だ。  康政の登場に、助かったと言わんばかりの顔をする小姓。忠勝の興味が康政に移ったのをみると、へなへなとその場にへたり込んだ。  忠勝は、康政の目をじっと見て問う。 「康政、殿が消えたというのは誠か」  康政が涼し気な目元を、僅かに細めた。 「さすがお耳が早い」 「ぬかせ」 「その件で、平八郎殿を探していたのですよう」 「この慌ただしい足音。既に城の者たちが、ほうぼう探し回っておるのだろうが」  康政は、耳を澄ましてみる。  足音はおろか、侍女たちのかしましいお喋りの声さえ聞こえてはこなかった。  「さすがは本多忠勝。野犬並みの耳の良さじゃ」と康政は、息を吐いた。  確かに、殿不在の情報は、家臣から家臣へ、侍女や小姓たちへと順に伝わるであろう。だが、ここにいる限りは、まだ何らかの大きな動きは感じられなかった。    それでも目の前の男は、既に数人の慌ただしい動きが聞こえているのだと言う。「ただ勝つ」という願いを込めて「忠勝」と名付けられた男は、耳でさえ化け物じみているものだなと素直に感心する康政。  そんな康政のマイペースさに苛立ったのか、忠勝の眉間の皺がどんどん深くなっていく。ドスの効いた低い声で威嚇をするも、さすが旧知の友、それでも康政は「ははあ」とのん気に笑っているのだった。  忠勝が、面白くなさそうに呟く。 「お前、理由を知っているのか」 「まあ、なんとなく」 「どうして」  「お前が知っている?」と忠勝の瞳の奥に、一瞬暗い影がよぎった。  武勇の誉れ高き本多家の若武者も、こと主君のこととなると豹変する。それはどこか暗くて、じっとりとした青い炎のようなほの暗さを感じるもので、康政はただの筋肉馬鹿ではない、忠勝のそういう部分を気に入っていた。 「さて。私もつい先ほど、酒井忠次殿から打ち明けられたもので」 「酒井殿から?」  忠勝が大きな目をギョロリと見開いて、続きを促してくる。  この後の惨状を思うと、わくわく……いや、重苦しく暗澹たる気持ちになるのだが、主人が心配でならない目の前の忠犬を前に誤魔化しはきかないだろうと、康政が腹を括る。  内緒話をするように、ひそりと秘めた声で康政が告げた。 「今宵、殿の寝所に人が訪ねてゆくことになっていたそうで」 「……は?」 「ただ、その男が訪れてすぐ」 「ああ? 男?」  三河ヤンキーの血のせいか、忠勝個人の資質によるものか、見事な巻き舌のダミ声が上がる。  聞き捨てならないという意見は、康政も同意だ。  だがしかし、このまま話を続けていいものだろうか。康政は「ああ」とか「ううむ」と言いながら、頭を右に傾け左に傾けしてみる。そうこうしていると、忠勝のこめかみに浮き上がっていた血管が、ブツリと切れた音が聞こえてくるような気がした。榊原康政は、覚悟を決めた。 「どうして、殿の元に、男が」 「種付けするのだそうで」 「たね……」 「殿は今宵、お家の為に子作りをされる予定だったらしく」 「はああああ?」  忠勝の叫びが、岡崎城内にこだました。  「酒井殿、申し訳ない」と康政は、心の内で頭を下げた。  あからさまに口止めされていたわけではないが、やんわりと忠勝にはこのことを黙っているよう先ほど言われたのだが……その読みは、見事的中していたといえる。  本多忠勝は、殿が絡むと平静ではいられない。  忠勝が並々ならぬ想いを抱き、康政が敬愛し、多くの家臣たちに慕われている若き主君には、たった一つだけ秘密があった。  それは、幼き頃より男の作法を徹底的に身に付けさせられ、現在進行形で松平家の当主であるべく教育を施された──そう。この物語の徳川家康は、女性だったのである。
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