第一章 二人きりの夜③

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第一章 二人きりの夜③

 パチンと、焚火の中の小枝がはぜる。  赤くて、橙色で、黄色くて、白い。不思議な炎の揺らぎを、忠勝と家康はただ黙ってみつめていた。  家康の膝小僧の傷は綺麗に清められ、白い布で巻かれている。その無骨な武士の手とは裏腹に、忠勝が丁寧に処置をしてくれたのだった。  パチ、パチンッ。  炎に照らされた忠勝と、目を伏せた家康の顔が赤々と浮かび上がる。  しばらくの沈黙ののち、覚悟を決めたように家康が口を開いた。 「そうか。忠勝も知っていたか」 「俺は知らなかった」  家康が小首を傾げる。  忠勝は憮然とした表情のまま、炎の中に枝をくべた。 「殿が城を飛び出してから、康政に聞いた。今夜、殿の寝所に男が訪れる手筈になっていたことを」 「そうであったか……」  家康が、長い睫毛に縁どられた瞼を伏せる。  忠勝が焚火の炎越しに、じっと家康のことを見ている。  家康は、大きな溜息をついた。 「仕方のないことなんじゃ」  誰に聞かせるでもなく、家康がひとりごちた。  そう、仕方のないことだ。  松平家の存続の為には、主君である自分の血を残さねばならない。例え、男として生きるように仕向けられ、自身も男として生きていく覚悟をしていたとしても、自分が子供を産まなければ血が絶えてしまう──。  はたして家康は男なのか、女なのか。  家康の胸の中に、苦い薬湯のような何かが広がっていく。 「本当にそれでいいのか? 殿は」  忠勝が家康に問う。  「勿論じゃ」そう答えようとして、そう言おうとして、家康は声を出すことが出来なかった。口の中が妙に乾いていて、パクパクと魚のように小刻みに口を開くことしか出来ないのだ。  納得していた筈の家康は今宵、逃げ出した。  寝間着のまま、その辺の草履をつっかけたままで。  今日の日を迎える為に、酒井忠次や石川数正が骨を折ってくれたというのに。  自分は今宵、男と通じて跡取りを孕まねばならなかったのに──。  家康の脳裏に、ほっそりとした長い指先が蘇ってくる。  忠次や数正が選んだのは、城下で人気の男娼だった。  見目麗しく、男性からも女性からも人気の店の看板だと聞いていた。その上、口が堅く、金さえ握らせておけば秘密を墓の中まで持っていくという手筈になっていたそうだ。行為に慣れていて、後腐れなく、家康の性別も体を重ねたことも、今宵限りで忘れてくれるという条件。  願ったりかなったりの相手だったではないか。他家の武将に頼み込んで、政治的な弱みを握られるより余程いい。家康は、己の唇を噛み締める。 「殿、わたくしにすべてお任せください。安心して身を委ねてくださいね」  相手の男は、優しかった。そういった行為に慣れているのであろう男は、ごく自然に、家康の鼻先にすりりと顔を寄せた。少しだけ茶色がかった瞳の奥をぼんやり見つめていると、男は家康の頬をねっとりと撫ぜた。  男の唇が間近に迫ってくる。男の生温かい吐息が、家康の頬にかかる。そうして、家康は覚悟を決め──られなかったのだ。 「ああああぁぁ、情けないっ」 「殿?」  髪を搔きむしる家康に、忠勝が目を丸くする。 「あそこで逃げては、逃げるなど……何なのだ、儂は。皆にも散々迷惑をかけて」 「嫌だったのではないのか?」 「へ?」  家康が、ぱちぱちと瞬きをする。  眉間を押さえる忠勝。  忠勝は片方の肩からずり落ちていた忠勝の黒い羽織を、家康の肩に掛け直してやる。  家康が怪訝そうに繰り返した。 「嫌……とは?」  忠勝が溜息をついた。  家康は本当に、何も分かっていないのだ。   「本当は嫌だったのではないのか? 殿は、男に抱かれることが。都合の良い時だけ、女の腹を貸せと言われることが。……自身の尊厳を、踏みにじられることが」  家康が息を飲む。  忠勝は、じっと目の前の主君の言葉を待っている。 「……主命とあらば」 「忠勝?」 「主命とあらば、叶えてみせるが」 「何を言っておる」  忠勝が覚悟を決めたように、背筋を正した。 「殿が、このまま逃げたいとご命じくだされば、必ず叶えてみせる」 「た、忠勝」 「すべてを捨てて、誰も知らない場所で生きていきたいというのなら」  家康は、ごくりと唾を飲み込む。  パチ、パチと、焚火の中の小枝がはぜている。  赤くて、橙色で、黄色くて、白い不思議な揺らめきを挟んで、忠勝と家康はただ黙って見つめ合っていた。
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