第一章 消えた家康②

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第一章 消えた家康②

「まいったなあ」  見上げると、空にはすっかりまん丸い月が顔を覗かせていた。  森の中の為、民家の灯りなどもなく、辺りは真っ暗。ホーホーと鳴く梟の声と虫の声だけが、孤独を紛らわしてくれるような気がした。  途方に暮れて深い溜息を吐くのは、この先の岡崎城が主──松平家康その人である。 「まったく、いつまで経っても情けないのう、儂は」  家康が白い寝間着の間から、すらりと伸びた白い足の膝小僧の辺りを撫でる。  着物の生地の内側から、じんわりと赤い血が滲んでいた。  思いっきり落ちたのだ、森の斜面を、笹に足を取られて。 「ううっ、今頃、忠次と数正は呆れているだろうか」  家康は今宵、逃げ出した。  はしたなくも、寝間着のまま、その辺の草履をつっかけたままで。  家康の脳裏に、よく手入れされたほっそりとした長い指先が蘇ってくる。 「殿、わたくしにすべてお任せください。安心して身を委ねてくださいね」  優しい声だった。そういう行為に慣れているのであろう男は、ごく自然に、家康の鼻先に顔を寄せた。  少しだけ茶色がかった瞳の奥をぼんやり見つめていると、男は家康の頬をねっとりと撫ぜた。  そうして、家康は覚悟を決めて──。 「ああああっ、頭が真っ白になって寝所を飛び出してしまうとは情けない。あの男にも、忠次と数正にも、戻ったら謝らねば!」  頭を抱えた家康の胸元から、胸に巻いた白いさらしが僅かに覗く。慌てて、寝間着の襟元を掻き合わせる家康。  慌てて飛び出してきたので、とにかく酷い恰好だった。それに、体中に葉っぱや小さな木の枝が付いている。当主がこの有様では、城の皆に会わせる顔がない。   家康は四方に乱れた艶やかな黒髪を、紙紐で結び直した。  そうだ。一刻も早く城に戻って、今宵の準備の為に骨を折ってくれた者たちに謝って、そして──。  あの男は、まだ城内にとどまっているのだろうか。  家康に、子を宿す為に?  そうだとしたら、無事に戻ったらまた?  いや、いやいやいや。  自分の弱い心根を打ち払うように、家康がぶんぶんと左右に首を振る。  家康は二十二年前、松平家当主松平広忠と、水野大子の娘として産まれた。  時は戦乱の世。お家の為に、どうしても後継ぎが欲しかった父母は、家康を嫡男として育てることを決意した。  幼い頃より武芸に励み、孟子を学び、今川や織田といった人質先でも、男として振る舞った。さすがに、今川義元や織田信長は気づいていたようだが、彼らはこちらの内情を汲んでくれたのか、細かくは何も言ってこなかった。  信長などは「このまま、俺の嫁になるか?」などと、事あるごとに冗談を言って揶揄ってきたものだ。  家康は痛む膝を庇いながら、立ち上がる。  斜面を滑り落ちたことで、今自分がどこにいるのか全く分からない。  とにかく、逃げたくて。城の裏口から闇雲に飛び出したせいで、森の奥深くまで迷い込んでしまったのだろう。  家康は、ここにこのまま留まるのは危険だと判断した。 「どこかに避難して……何とかして、戻らねばならぬ」  家臣に懇願され、お家の為に跡継ぎを作るという話を飲んだばかりだ。  そのたった一人の主君が野犬や熊に喰われでもしたら、お家はどうなる。松平の譜代の家臣たちも、浮かばれないであろう。 「そうだ。何としても城に」  家康は足を引き摺るようにして、月明かりの下を進んでいく。  朝まで身を潜めていることが出来るのなら、どこだっていい。大きな木のウロ、岩屋、朽ちた廃屋、どこだって。  ガクン。  家康が、膝から崩れ落ちた。気は急いていても、やはり足が傷むのだった。唇を噛み締めて立ち上がろうとした瞬間、遠くの藪がガザリと音を立てたような気がした。  びくりと家康が、身を強張らせる。 「さ、酒井忠次? それとも石川数正か?」  もしかしたら、事情を知る家臣たちが、自分を探しに来てくれたのかもしれない。  仄かに灯った希望に、家康が勇気を振り絞って再び口を開く。 「探しに来てくれたのか、儂のことを」  暗い藪の向こうは、シンと静まり返り応える気配はない。 「ま、まさか野犬? それとも……」  家康が背を向けて走り出そうとした瞬間、目の前の背の高い藪がガサガサッと大きく揺れた。 「ぎゃああああっ!?」 家康の叫び声が、満月の夜空にこだました。
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