第一章 消えた家康③

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第一章 消えた家康③

「ぎゃああああっ!?」  悲鳴を聞いて、忠勝は藪を越え飛び出してきた。 「殿!」  耳の良い忠勝が、己のたった一人の主君の声を聞き間違える筈もない。例えそれが、耳をつんざくような絶叫だったとしても。 しかし、忠勝の声は、家康には届いていなかった。  熊か猪か野党か、概ねその辺りに間違えられた忠勝に背を向け一目散に逃げ出したからだ。 「殿、俺です!……クソッ」  槍を手にした忠勝が、主君を追う。  忠勝の槍は、特殊だった。通常の槍の長さは一丈半ほどであるが、忠勝の槍は2丈(約6m)。その名を「蜻蛉切」という。この長大な槍は忠勝を象徴する武器として、のちに「天下三名槍」の一つにもなる名槍だ。  そんな大槍を持って、全身を漆黒の鎧で固めた若武者が突進してくるのだ。合戦の場での敵兵は、さぞ震え上がったものであろう。  だがしかし、家康の方はといえば、とにかく逃げ足が速かった。  木の幹を回り込み、藪の合間をくぐり抜け、その細身の体を活かして追っ手を撒こうと器用に逃げ回っているのだ。 「ったく、あれは止まらんな」  忠勝は手の中の槍をくるりと回すと、家康が向かう方角にある大きな楠の木目掛けて思いっきり投げた。   ドスッッ。  最短の直線を描いて、太い幹に長い槍が突き刺さる。 「ひゃあっ」  家康は素っ頓狂な声を上げて、足をもつれさせた。  五寸先の大楠に、槍が突き刺さっている。  おそるおそる振り返る家康。自分を狙う刺客に出くわしたとでも思ったか、その表情は緊張と焦りを帯びている。腰の刀に手をやるも、家康の手はむなしく宙を掻いた。  寝所から寝間着のまま飛び出してきた家康は、脇差さえ持っていなかった。今更ながら、自分の不用心さに唇を噛み締める。 「わ、儂を、松平家康と知っての狼藉か?」  強張った顔のまま、家康が正面へと向き直る。  忠勝は平素とまるで変わらぬよく通る声で、主君へと呼びかけた。 「殿」 「は?」  忠勝は暗闇の中から、ゆらりと月明かりの下に立った。  夜の闇に溶け込むような黒い羽織。目尻の切れ上がった大きな瞳、きりりとした男らしい眉、美しく通った鼻筋に、形の良い少し厚めの唇。高めに結った長めの黒髪は、城から必死に走ってきたのだろう、少し乱れていた。  ぽかんと口を開けた家康の目が、大きく見開かれる。 「忠勝……?」 「探しましたぞ、家康公」   「まったく。主君に向かって槍を投げる奴が、どこにおるか!」  パチパチと炎を上げる焚火に照らされて、襟元から覗く家康の肌が白く浮かび上がる。少し汗ばんだ白い肌に、ほつれた黒い髪。その姿は、悪寒とは違うぞわりとした何かを忠勝の全身に駆け巡らせる。  忠勝が、ふいと目を逸らした。  どこかぎこちない様子の忠勝と、いつもと変わらぬ家康。  いや、月明かりの下で忠勝と合流し、道すがら忠勝が見つけて来た岩屋に避難した後も、家康の怒りは収まらなかった。  火に向かって、黙々と枝を投げ入れる忠勝。  パキンッと、心地よい音が焚火の中から聞こえてくる。  紅のように赤く、山吹の花のように橙色で、太陽のように白い炎。  その炎に照らされた白い寝間着姿の家康は、忠勝の目にはいつも以上に頼りなく見えた。 「大体、お前はいつも、いつも──」  ここぞとばかりに日頃の鬱憤を吐き出す家康を前に、忠勝は頷くでも頭を下げるでもなく、ただ黙って聞いていたのだが。  突然、忠勝が立ち上がった。 「おおっ」  家康が、ずりずりと尻で後ずさって身構える。 「お、おお、怒ったのか?」  家康が潤んだ黒い目で、忠勝を見上げる。  (何だ、その上目遣いは……)  忠勝は、主に悟られぬように細く息を吐いた。 「水を汲んできます」 「へっ」 「この岩屋のすぐ近くに、沢があったでしょう」 「水か。儂は喉など乾いていないが」 「足」 「は、足?」  家康が、ぱちくりと瞬きを繰り返す。  忠勝が、地面に置いてあった槍を手にした。 「膝から血が出ている、手当をしないと」  得心がいった家康は、ああと大きく息を吐いた。 「良い、良い。こんな掠り傷」 「森で転んで、高熱を出して死んだ奴を知っています」 「何っ」 「殿、これを」  そう言って、忠勝が自分の槍をズイと差し出した。  首を傾げる家康。 「これは……蜻蛉切、だよな?」  ズシリ。  槍の重さに、受け取った家康の手がぶるぶると震える。 「重っ」 「すぐ戻ります」 「おい、忠勝!?」  戸惑う家康に、有無を言わせず己の槍を手渡した忠勝。そのまま岩屋の外の宵闇へ出ていこうとしたが、くるりと踵を返して戻ってくる。  忠勝は己の黒い羽織を脱ぐと、白い寝間着姿の頼りない肩にふぁさりと掛けた。
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