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第一章 告白①
バシャッ、バシャ。
雑念を打ち払う様に沢の水で顔を洗っていた忠勝が、顔を上げる。
水の雫が、すべらかな肌を伝って次から次へと垂れてくる。忠勝は黒い着物の袖でおざなりに顔を拭うと、肩で大きく息を吐いた。
「修行が足りん」
炎に照らされた襟元から覗く少し汗ばんだ白い肌、ほつれた黒髪。
バシャ、バシャ、バシャッ。
忠勝が沢の水で、再び顔を洗う。
潤んだ黒い目の上目遣い、頼りない肩、暗い森の奥、家臣は他にいない──洞窟に二人きり。
忠勝が勢いよく、清流に顔を突っ込んだ。
こんな気持ちのままでは帰れない。あの岩屋へは。
ザバリと忠勝が、水面に沈んでいた顔を上げる。
懐から手ぬぐいを取り出すと、沢の水に浸した。そのままゆらゆらと、手ぬぐいを水の中で揺らめかせる。
薬が無いのは口惜しいが、とりあえず傷口を清潔にするのが肝心だ。殿を無事、城にお返しする。今の自分がやるべきことは、それ以外にない。そう、それだけだ。
忠勝は念入りに、手ぬぐいに水を含ませた。
寝間着の間から覗くすらりと伸びた白い足、じんわりと赤い血が滲んだ膝小僧。
血が出そうなほど唇を強く噛み締め、忠勝は頭上の満月を睨みつけた。
主君の信頼に足る己でありたい。
常にそう願っている。幼い時よりずっと。だが、現実はなかなか上手くいかないものだ。
「弱いな、俺は。あの日、殿と約束したというのに……」
らしくもない頼りない声で、忠勝が自分に言い聞かせるように呟く。
バシャンッ。
少し離れた岩の近くで、水面が大きく跳ねた。これほど透明で、美しい水だ。魚も多く生息しているのだろう。
くるくるとぼんぼりが回るように、忠勝の頭の中に数年前の記憶が蘇ってきた。
あれは忠勝の初陣、永禄3年の大高城兵糧入れのすぐ後だったろうか。忠勝の歳は十三、六つ上の家康は十九歳だったように記憶している。
あの日、忠勝は殿の秘密を知ったのだった。
「何だ、何だ。もうへばったか平八郎!」
忠勝の叔父、本多忠真が揶揄するようにドンと槍で地面を突いた。
不精髭を生やし、飄々とした調子の本多忠真は、武芸に優れ、名門本多家の出でもあり、そして何より忠勝の育ての親だった。
忠真は、天文18年の安祥城攻めで兄の忠高が討死すると、その妻と幼い鍋之助を引き取り、最強の武士になるよう養育した。鍋之助とは勿論、本多平八郎忠勝の幼名である。
地面に膝を着いて荒い息を吐いていた忠勝は、下から叔父をギロリと睨みつけた。
「うおおおお」
忠勝が槍を手に、忠真に飛び掛かる。
火花が飛び散るかのように、二人の槍が交差した。ぐぐっと忠勝が押され、ズリズリと数歩後退する。
「そんな腕で、殿をお守りしたいなど片腹痛いわ」
「それはっ」
ガキンと鈍い音を立てて、忠真の槍が宙を飛ぶ。
忠勝が押し勝ったのだ。
忠真は満足そうに、ニヤリと口角を上げた。
「本当に殿のことが好きだな、お前は」
忠勝は口を尖らせて、叔父の視線から逃げるようにそっぽを向く。
「別に。あんな弱っちい奴のことなんて」
「平八郎。我らが殿の為に、三河の未来の為に、お前は最強の侍になるんじゃ。良いな?」
ザバアッ。
叔父との稽古が終わり、忠勝はひとり井戸の水で行水をしていた。
諸袖を脱いで上半身は裸という出で立ちだが、そんなことを気にする者など、ここ岡崎城では誰もいない。誰もが忙しそうに、自分がするべきことの為に働いている。
稽古で火照った体が、冷たい水を浴びて一気に息を吹き返していくようだった。
(もっと強く、誰よりも強くなって、日の本いちの侍になる。そして──)
「仕方ないから、あの青瓢箪を守ってやる」
忠真に聞かれでもしたら拳骨の一つや二つ貰っていただろうが、青瓢箪とはこの岡崎城の主、家康のことである。
十三歳当時の忠勝は、六年後の十九歳の忠勝以上に殿に対して不遜であった。
透き通るような白い肌で、華奢、泣き虫で、すぐに腹を下す。
本多の家の者は代々、松平家の主君を守るために討死している。
そんな環境で育ってきた忠勝にとって、主君とは強く、大きく、威厳があり、自分たちが命を賭けてお守りする存在──と、未来の主への理想ばかりが高くなってしまった。
だからこそ、初めて家康と対面した時には、己が幼少の頃より抱いていた主君像とあまりにかけ離れていた為、開いた口が塞がらなかったものだ。
その直後に、叔父である忠真に後ろから思いっきりはたかれたのだが。
だが、忠勝は少しずつ知ることになる。
家康は、か弱いだけの主君ではなかった。
十九歳の男子にしては華奢な方ではあるが、剣の腕前はなかなかのものだった。織田家と今川家での人質時代に、よくよく鍛錬をさせられたらしい。
すぐに腹を下すが、思慮深く、決して頭が切れないわけでもない。
それに家臣から下女まで平等に優しく、誰の話でも耳を傾け、上の者にありがちな傲慢さがまるでない。
元服をしたばかり年齢の忠勝がどんなに生意気な口をきいても、「しょうがない奴じゃのう、平八郎は」と眉を八の字にして苦笑している。
自分が仕える理想の主とは少々、大分、違ったが……それでもどこか放っておけないこの殿さまを守ってやろうという程度には、忠勝も家康のことを認めていた。
忠勝はもう一度桶になみなみと水を汲み、顔から勢いよく水をかぶった。
バシャンッ。
「うわっ」
背後で、酷く狼狽した声が聞こえた。
「ええ、何で……?」
聞き覚えのある、今まさに忠勝が頭に浮かべていたその人の声。
ずぶ濡れの忠勝が、ゆっくりと後ろを振り返る。
そこには、背後から忠勝に声を掛けようとしていた間の悪い者が立ち尽くしていた。
忠勝からの貰い水のせいで、目の覚めるような若草色の着物をずぶ濡れにした家康が。
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