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私は決まってコーヒーを買う。
工場で働いていると、曇天に浸かったような鬱蒼な空気と規則的な機械音とに手足が浸食されて、私が「ハイイロ」になる。生きてるって感覚がほしくて、かじかんだ手でコーヒーの熱を受けとる。じゅわぁと紙コップにカフェインが浸透していく。「いきもの」としての私の生を感じる。
時計を見る、一杯のコーヒーを飲み干すくらいには時間があった。またパンを袋詰めするだけの十時間が訪れると思うと足取りが重くはなるが、自分で考えることが嫌いだった私には合っていると思う。私はロボット、私はパーツ。そう考えると湯煎に浸かったような心地よさを感じる。「ハイイロ」としての私は嫌いじゃないし、「ハイイロ」の私があるからこそ「いきもの」の私がよく分かる。
曇りの空、冷えた空気がコンクリートに沈澱している。最寄駅から二十分ほど歩くと、草の生い茂る空き地に囲まれた工場が見えてくる。錆びた廃墟みたいっていつも思う。実際、自治体と周辺市民から廃墟と間違えられていて、限りなく黒よりの出勤時間と退勤時間も相まって数年間だれも工場と気がつくことなく取り壊し寸前までいった。業者に依頼を済ませたところで取り壊しの噂を聞いた工場長が役所に駆けこんだそうな。海に近いこともあり、たしかに壁面の腐朽は早く工事費もろくにかけていないせいでヒビが散見しているが、私はそんなここが好きだった。
控室の前に立って異変に気づいた。知らない声がする。新人さんかなと思いながら扉を開くと、焦げたパンのような肌をした鼻の高い男らがいた。彼らはこっちを一瞥して、何もなかったようにまた私の知らない言葉で談笑を始めた。
「ああ、日番谷さん。ちょっとこの人たちに作業着着せてあげて」
佐伯という上司が私に気づいて、手招きしながらそう言った。
「新人さんですか?」
「そう、言ってなかったっけ。フィリピンから来た人」
聞いた覚えはなかったが、問いただすこともせず彼らに用意されていた作業着を渡した。
「ウェアー、オーケー?」
「オーケーオーケー」
フィリピン人のひとりが白い歯を唇のあいだから覗かせた。彼らから視線を外し、ロッカーにバックを放り投げて作業着に着替える。コロナが流行るまえから慣れていた白マスクをつけてロッカーの鍵を閉めたとき、佐伯がふたたび控え室に入ってきた。
「ちょっと日番谷さん、彼ら作業着の着方だめだめじゃん」
視線をそちらに移すと、たしかにシャツが裾の中に入っていなかったり第一ボタンが開いてたりしていた。すみませんと謝りながら彼らの服装を正す。
始業時間の頃にはぞろぞろと他の面々も集まっていて、佐伯からフィリピン人らの紹介があった。カタコトで簡単な自己紹介を済ませると、新人研修という形で私が彼らのひとりに業務を教えることになった。朝礼後、ハメスと名乗った男がヨロ、シクと話しかけてきた。
ハメスは恐ろしく物覚えが悪かった。私も良い方ではないが、彼は日本という環境と生来の脳みそがかけ合ってしっちゃかめっちゃかになっていた。
ハメスは日本語を三つしか知らなかった。よろしくと、ありがとうと、オーケー。そして英語は一つも分からない。もちろん消毒も袋もパンも分からず、手を忙しなく動かして伝えようとするがハメスはしきりに白い歯を見せてきた。そして、また同じミスをくりかえす。
彼の水色のビニール手袋はいうことを聞かないようで、握る力が強すぎるせいかよくコッペパンを捥いだ。ジェスチャーを交えながら丁寧にパンを扱うことを教えたが、彼はすぐにパンを捥いだ。今度は慣れない英語を用いて教えたが、またもいだ(そこでハメスが英語を知らないらしいことを悟った)。自力で伝えることを諦めて控室に戻り、スマホでタガログ語(フィリピンの公用語)に翻訳したうえでハメスに「マルマナイ ナ ラテュヒン アン ティナパイ(優しくパンを扱って)」とカタコトで言った。控え室に戻っているあいだにもパンをいくつか捥いでいたハメスは「オーケーオーケー!」と答えると、パンを捥ぐ代わりによく落とすようになった。この癖は翻訳して伝えても直らず、就業時間を迎えるころには、廃棄の袋は二つに捥がれたコッペパンとハメスの手から逃げたコッペパンでいっぱいになっていた。
「今日だけで二ヶ月分の廃棄量じゃん」ポリ袋をのぞいた佐伯が呟いた。彼は分かりやすくイラついていた。佐伯は私を呼びつけて、ポリ袋の中のパンを見せてきた。
「これハメスが落としたの?」
「はい」
「流石に落としすぎ。早急に改善して欲しいんだけど、なんて彼に言ってるの?」
「翻訳した上で「パンを落とさないで」って伝えています」
ため息をつかれる。
「もっと強めに言って、日番谷さん。彼ら覚え悪いから」
彼らと聞いて察した。どうやらハメスだけではないらしく、他の廃棄袋も一目でわかるほどパンで膨らんでいた。私が佐伯に注意を受けているあいだ、彼らは控室の真ん中で白い歯を見せびらかしていた。わざとらしくロボットみたいにパンを袋に詰める動作を繰り返しては指を差して笑い合っていた。それを見て、私の脳裏に熱が走った。こめかみに手を当てる。
「おお、珍しく日番谷が怒ってる」
真横から声が飛んできた。ふっ、と意識がそちらに向く。
「君に言われたくないね。いつもより目つきが百倍悪いよ」
後藤は疲れたように「あ、分かる?」と軽く笑った。工場の門扉を出るとすでに日は姿を隠し、月が山間部から顔を出していた。
「おまえのところはいくつダメにした?」後藤が聞いてきた。
「数えられないね」
「俺もだよ。初めてみたね、廃棄の袋がパンパンになってるところ」
線路沿いを道なりに歩く。空き地に生い茂った種々のなかから田舎の「いきもの」の声が聞こえる。鼓膜を揺らすというよりは、夜風のように身体をふるわせる「いきもの」の声。夏独特の冷気が降りてくる、感覚が研ぎ澄まされる。土と、生ぬるい泥水の匂いが鼻をくすぐる。「いきもの」としての私が顔を出す。
それは、今のパン工場を選んだ、たしかな理由の一つだ。そもそも就活をしている私を、同級生である後藤が誘ったのが発端だった。彼自身はあまり乗り気ではなかったが、私に合ってそうという理由で紹介してくれたそうだ。工場見学の予約をとり、田舎の路線を使って工場へと向かった。
ーーここなら、私を取ってくれそう。
初めてパン工場を見たとき、私はそう思った。
ーーああ、もう大丈夫だ。
それだけで私は嬉しくなった。門扉は異音を立てて開閉をくりかえし、壁面は蛇みたいに亀裂がところどころに走っていてネズミが住んでいそうだった。中に入ると、従業員たちが同じ動作をただただリピートしていて、私という異物がいても誰も気にすることはなかった。まるでジオラマの中に入ったみたいで、私もその一部になれると思うと嬉しくなった。このジオラマなら、私が一パーツでも許されるよね? それを肯定するかのように、当時の就活生としての私を、「ハイイロ」の私を取ってくれる企業はここだけだった。そのジオラマを、彼らフィリピン人は壊そうとしている。
「話と違うじゃん」
「何が?」後藤がこちらを見る。
「私を誘ったとき、「日番谷なら大丈夫」って言ってたじゃん」
「しらねぇよ。俺なんてこんなところ本当は入りたくなかったし、入ってからこんなことになるなんて知らねぇ」
「わかってるよ。ただの八つ当たり」
電車が私たちを追い越して行った。夜道を車窓からの明かりが駆け抜けていく。
「明日からはマシになってるといいな」後藤はそう呟いたが、明日も明後日もジオラマは地獄と化していた。
翌日の一番にハメスに物品の運搬を頼んだが、運び出す場所を教えてもすぐに忘れてどこかで道草を食う。彼は他の作業場所に迷いこんでパンの生地を練り込む機械のスイッチを切ってしまい、監督責任として私がこっぴどく叱られ減給処分を受けた。それ以来、私が彼から目を離さざるおえないような作業を任せないという結論に至ったが、うなぎを手掴みするみたいにハメスのパンは手から滑り落ち、その度に私が廃棄しに行く。戻ってくるとハメスが消えていたことが三回あり、それからハメスを連れて廃棄しに行くことにしたものの、二回ほど私の目を盗んでどこかに消えた。
もちろん、スマホを用いて何回も伝えたものの彼は「オーケー」とだけ返して歯を見せた。その白い歯を見るたびに脳裏が熱を訴える。すると体中に熱が広がっていって私の挙動にまで支障をきたすようになる。ひどくなると偏頭痛という虫が頭の中に棲みついて業務どころじゃなくなるために、今では薬を飲みながら働いている。
ハメスの放浪癖は工場で有名になっていた。そのことを佐伯は良しとせず、日を追うごとに私を怒鳴りつけるようになっていった。
「すみません。もう私には無理です。ハメスくんの担当を変えてください」
そう頼むと佐伯は微妙な面立ちになって、「ごめん日番谷さん、強く言いすぎた。もうちょっとハメスくんの面倒見てあげてくれない?」と聞いてきた。
「もう私の方が限界なんです。頭痛の薬の方も効き目がなくなってきてます」
「みんな一緒だからさ、日番谷さんもここ長いしあなただけ担当を変えるのは難しいんだよ」
みんな一緒? 頭の中に抱えていた熱を思わず吐き出しそうになって抑え込んだ。だめだ。一パーツが熱を持ってはいけない、歪んでジオラマが動かなくなってしまう。
「ごめんなさい、本当に無理です」
私がそう伝えると、佐伯は大きくため息をついた。
「いいよ、わかってる。あいつらを辞めさせれば全部解決するだろってみんな思ってるんだろ? 昨日、後藤が言いにきたんだ。「あいつら全員、働く気がないならやめさせろ」って。僕だってそう思ってる」
私は黙って聞いている。
「でも、無理だ。上からの通達で辞めさせられない。何故かって、彼らを雇っているのはあくまでも安く雇える労働力って側面と、外国人を受け入れてるっていう事実が欲しいからなんだと。ほら、多様性って言うだろ? そういうのをアピールするのが目的」
佐伯はそこまで言うと、頭を深々と下げた。
「せめて足を引っ張らないようにして欲しい。頼む」
私は、深い絶望を覚えた。今まで抱いていた工場への姿とはまったく違う、別のなにかへとここが変わってしまったように見えた。突如として鬱蒼な空気が泥水みたいに私の足を飲みこんだ。単調な壁面と、密閉性からくる無機質な世界がふと密林のごとく頭の中のコンパスを狂わせる。
あれ、持ち場ってどこだっけ。立つことすらできなくなって、動物となった私は這い這いになってコウジョウを彷徨った。獣のように叫びを上げる灰色の機械、こちらには目もくれずレーンを漁る作業着たち。物音を立てないようゆっくりと進んでいくと、ハメスが、床に落ちたコッペパンを足で器用に拾い上げているのを見た。彼はそのパンを何事もなかったように袋に詰めていた。私は急激に頭から血の気が冷めていくのを感じて、すぐさまハメスから袋を取りあげた。それから佐伯に事情を説明し、何度も頭を下げてラインを止めてもらった。私がいなかった間にハメスが袋詰めしたと思われるものは全て廃棄してから、私はハメスを問い詰めた。
「なんであんなことしてたの?」
頭が熱い。焼けるほど熱い。「いきもの」としての私が、一パーツとしてのプライドが、背筋から津波のごとく押し寄せてきて、黒いうねりが纏わりついてくる。ハメスは私の腕を握ると控室に連れ出して、スマホを取り出してなにやらマイクに向かって話しかけた。直後に、Siriの無機質な声が私の耳に届いた。
『オコラナイデクダサイ』
私も自分のスマホをロッカーから取り出した。
『ダヒル ティナ トレトモアン ティナパイ ガミト アン イヨン マガ パ(あなたがパンを足で扱うからだ)』
『ダレモキニシマセン』
『ヒンディ ヤナ プロブレマ(そういう問題じゃない)』
ハメスは首を傾げた。それが意味がわかった上でのものなのか、スマホの翻訳ゆえにうまく伝わっていなかったせいなのか分からなかったが、ハメスはそれ以上なにも言わずに作業着を脱ぎ始めると控室を後にした。それからハメスは、勤務中ただ私の後ろに突っ立っているようになった。
帰り道でそれを後藤に伝えると「よかったじゃん、足手まといが消えて」と返された。彼の目は血走っていて、人を射さす目つきをしていた。その日は後藤の家によって二人で晩酌をし合ったが、彼は荒れに荒れてウイスキーの瓶を逆さにして口で蓋をした。当然、数秒後には床に伏してミミズのように蠢いている。私は彼の様を大笑いしていたが、そんな私を後藤はじっと見つめていた。
「俺は、おまえとは違うんだよ」呂律が回っていないながら、その言葉には妙な迫力があった。
「うん、そうだね」
「こんな、工場なんかで、働く気は、なかったんだよ。もっと、でかい金を、動かしたかった」
後藤は就活で三十の大手企業を受け、その全てに落ちた。就職浪人をしようとしたが親に猛反対されてこの工場で働いている。彼は大口を叩く癖があり、そのわりには内実が伴っていない小物っぽいところを私は気に入っている。彼は純粋に「いきもの」だ。工場で働いているのに「ハイイロ」に染まらず、そのくせして根が真面目だから「ハイイロ」な私より熱心に働いている。一つのパーツのあり方として、私は彼を認めている。
「それでも、頑張ってんだよ。頑張ってんだ。なのに、あいつら、ほんと、なんなんだよ」
後藤は蹲るようにして悶えている。その目がやはり血走っていて、少し怖かった。
「後藤さんがジョシュアを殴りました」
朝礼の場で佐伯が言った。私は驚かなかった。彼のため込んだストレスがこっちに向かなくて良かったと、むしろ安堵した。
「謹慎処分でしばらく来ません。そこのフォローを日番谷さんがして、今までの持ち場はハメスがお願いします」
佐伯の言葉を私がスマホで翻訳してハメスに伝える。いつものことだったが、あの日からハメスは「オーケー」とも言わなくなった。持ち場が変わったことで慣れない後藤の業務をしながらハメスの研修を行うのは難しいと、私の代わりに佐伯がハメスの面倒を見ることになった。
控室の扉を開けたとき、私がすっと工場に溶け込んだ。迷うことなく持ち場について決められた動作を繰り返す。パンを持って、袋に詰めて、レーンに戻す。四肢が喜びの叫びをあげて動いている。その日の十時間はあっという間に過ぎて、もっと働きたいくらいだった。帰り道、「いきもの」の声がいつもよりよく聞こえてきてスキップした。まるでピーターパンみたいに空をかけているようで楽しくなって、私も「いきもの」となって蛙や虫たちと共に大声で笑った。あの日以来の、工場に見学した以来の歓喜がシャワーのように降り注いでくるのを感じる。
生きてる、私は生きてる。楽しい!
その気持ちのまま、私は後藤を励ましにでも行こうと彼の家まで駆けた。玄関扉を開けたとき、私の鼻は強いアルコール臭に刺された。足元に宵闇が伸びる。居間から伸びる薄暗い明りが、私の浮かれた心を真っ白に侵した。
「入って来いよ」台風前夜の如く、不気味な低音が唸る。生死を自覚する。
私は物音を立てないよう慎重に、明かりの濃い方へと引きずられた。居間への扉の前まで来たとき、心臓が夜風に晒された感覚がした。それでも私はドアノブに手をかけ、おそるおそる回した。
「おう、おまえか」
あ。
怖い。
怖い怖い怖い怖い。
身がすくんで動けない。
私は初めてそれ見たにも関わらず、後藤の顔に出ているものが死相だということを悟った。割れたガラス瓶と電球のガラスらしきものが床に散乱し、アルコール類が蒸発して異様な景色を見せていた。最早、私には後藤が人かどうかもわからなかった。
「……」
「なんだよ黙って。どうしたんだ」
「励ましに来たんだよ」
「お! そりゃ嬉しいな。コンビニで酒でも買いに行くか」
後藤は立ち上がり、ガラスの欠片を蹴り散らしながら玄関へと足を運んだ。裸足のためにガラスが肉に突き刺さり、赤黒い血がテレビに映ったタレントを汚した。彼はそれを全く気にすることなく、その身に憑いた限りなく殺意に近い憎悪の矛先を探していた。
「……」
「どうした、行かないのか?」
「行くよ」
「おう」
私は、彼が「ばけもの」と成ったことを知った。
コンビニに入ると、胸に「チン」と書かれた名札をつけた男がこちらを一瞥した。まじまじと私と後藤を見ると、なにも言わずに商品整理を再開した。後藤に視線を移すと明らかに不機嫌そうで、入店のチャイムを遮るほど大きな舌打ちをした。
「今日は私が奢るよ、好きなもの選んで」
彼の機嫌を取るように提案する。後藤は「おう」と言ったまま迷わずアルコール飲料へと進み、乱暴に酒瓶と缶を私の持つカゴに放り投げてレジへと足を向けた。悪寒が走った。逃げ出したくなったが、衝動という、黒く巨大で津波のごとく蠢くそれが私の方に襲いかかるのを恐れて、「ばけもの」のあとをついていった。
後藤は台にカゴを置いた。中国人が酒瓶を手にとり、バーコードを読み取る。ひとつ。ひとつ。またひとつ。酒瓶が尽きて、缶へ。またひとつ、ひとつ。
「センロッピャクハチジュウエン」
私は後藤の前に出て、急いで二千円札を渡した。中国人の挙動がやけにゆっくりに見えて焦った。やっとお釣りを渡されて、自動ドアへと駆けた。店の外に出たとき、安堵が込みあげて息を漏らした。そしてあたりを見回して、後藤がいないことに気がついた。私は気が付かないふりをしていた。気づいたら終わりだから。後ろを、ふりかえる。
「おまえ、舌打ちしたよな」
後藤は気がついていた。後藤がカゴを置いたとき、中国人が小さく舌打ちしたことを。
「シラネ」
「ばけもの」が、笑った。
衝動が爆発し、そのエネルギーを拳に乗せて中国人に振りかざした。赤い斑点が飛ぶ。雄叫びをあげて再度、拳を振り下ろして叫んだ。
ちゃんと働けよ!
なんで外国から来てるお前らが働かねえんだよ!
てめえら、まともな仕事もできねえなら帰れ!
さもなくば死ね!
目前で「ばけもの」という巨躯の業火が膨れあがり、火の影が私を呑みこんで一層闇を濃くしていく。弱き「いきもの」の血が頬に付着する。そこからぼおっと炎が湧き出ると私のなかの「いきもの」としての、「ハイイロ」の私が抑えていた脳裏の熱が呼応して、怪獣のように咆哮する。怖い。「ばけもの」も、「ばけもの」に犯されてどうにかなってしまいそうな私も、怖い。バチバチと「ハイイロ」が溶けて、炎と化した私の熱と混ざり新しい私が形成されていく。
強い「いきもの」の私がーー。
在日インド人が中国人に重症を負わせたというニュースは、死者がいないにも関わらず連日報道された。インド人が差別的な言葉を吐いたと近隣住民から証言があり、国際的な問題へと発展したからだった。私はインド人の知人としてインタビューされたが、彼に対して否定的な言葉を口から出した記憶はない。後藤は当然逮捕され、職場から自主退職ということで籍を失った。工場というジオラマは、翌日から何事もなかったように動き出した。
「後藤くんの持ち場は僕が担当するので、日番谷さんはハメスと一緒に元の持ち場に戻ってください」
作業着の袖に腕を通す。ハメスと共に持ち場へ行くと、彼はよく佐伯に怒られて働かされていたようですぐに来た道を引き返した。私は彼を追うと、腕を掴んで無理やり持ち場へと引きずった。そのままフィリピン人特有の焦げ茶の肌が透けたビニール手袋の上にパンを置き、そのパンを袋の中へ入れさせた。ハメスは目を見開いていた。
私もパンを手にとり、袋に入れる。決められたパターンをこなしていると、ハメスが落としたパンを足で拾い上げてるのを横目に見た。私はすぐにそのパンを取り上げると、ハメスのマスクを強引に下げて彼の口にパンを詰め込んだ。私の知らない言語を彼はなにやら叫んでいたが、構わず喉元にパンを押しこんで強引に飲みこませた。咳きこむハメスに、灰色の生き物は笑いかけた。
「オーケー?」
弱い「いきもの」は怯え、食べられないようにひれ伏せた。白い歯をガタガタと鳴らす様を見て、パーツが一つ増えたことに私は喜んだ。
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