ドミノとチェス

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 目を開けると壁がいた。手足の生えた壁が。うようよと。  白い壁だった。壁の大きさは、成人男性の胴体と同じくらい。そこから人間の手足が伸びている。  目の前の壁達はグループでおしゃべりしている様子だ。  声は聞こえない。なにせ壁だから。  性別もわからない。当たり前だ、壁だから。  ここはどこだ。冷たい感触が左の頬に触れる。ひんやりとした地面。広さもわからない。明かりもなく闇に覆われている。にもかかわらず、白い壁達の姿ははっきりと浮かび上がる。  記憶を辿る。会社からの帰り道。自宅近くのバス停でバスを降り、音楽を聴きながら自宅アパートに向かっていた。  住宅街の狭い道。背後から車のライトに照らされて自分の影が大きくなった。  そこで記憶は途絶えている。  もしかして、死んだ? ということは、あの世?  突然、目の前で壁同士が喧嘩を始める。片方の壁が馬乗りになり、拳を振り下ろそうとしている。  いや、こんなヘンテコなあの世があってたまるか。  下になっていた壁が、相手を押しのけ、起きあがる。向かい合い、レスリングのように組み合うと、ぐるぐる回る。  しばらく見ているうちに、どっちがどっちかわからなくなる。  そうしたところで、ようやく別の壁が仲裁に入る。壁同士の間に入った壁が「お互い落ち着け」とジェスチャーで伝える。  これでようやく落ち着くかと思ったが、あろうことか、片方の壁が仲裁役の壁に体当たりする。 「こっちが野蛮な壁か」そう思っておかしくなる。野蛮な壁って何だよ。  周りにいた壁達が殴りかかった壁を引き離しにかかかる。引き離された壁は手足をバタバタさせている。あの壁は何に対して怒っているのか。  取り囲んだ壁達が押し倒し、踏みつける。壁の砕ける音がする。しばらくして壁達が離れる。幾つもの断片に分かれ、バラバラになった壁。手足はなくなっていた。  一人の壁が近づいてくる。身を屈め、横になった自分をのぞき込み、周囲にジェスチャーで伝える。  立ち上がる。身体はどこも怪我をしていなかった。  近くにいた壁達が集まり整列する。9人の壁。  並んだからわかる。壁の大きさにも違いがあり、手足の太さや長さも異なる。  そのまま向き合っていたかと思うと、壁達が一斉に身体を傾け、お辞儀をする。  こちらも慌ててお辞儀をする。  どういうことだ。お辞儀を終えると、正面にいた壁が手を差し出す。  握手する。壁の手は冷たかった。  壁達が背を向け散り散りになった所で、どこかからブザー音が鳴る。  何が始まるのか?  何も始まらない。散り散りなった壁達は、こちらの様子をうかがっている。  ゲームか? これはゲームなのか?  何のために? 今自分がどこにいて、生きているかどうかもわからないのに? 「おーい」近くの壁に呼びかける。「教えてくれ。これは一体何なんだ」  無言。答えられないだけでなく、聞こえてすらいない様子だ。  どうすればいいのか。  呼びかけた壁に近づいていく。向こうも歩いてくる。と思いきや、駆け出し、そのまま体当たりされる。  吹き飛ばされ、固い地面に転がる。息ができない。肋骨が数本折れたんじゃないかと思うような衝撃。  ゆっくりと立ち上がる。  壁に体当たりされるなんて聞いたことがない。  そっちがそのつもりならやってやろうじゃないか。全員へし折って石碑にしてやるよ。  さっき飛びかかってきた壁はどいつだ?  見た目じゃわからない。  構えている奴がいる。向かってこいってか?  駆け出し、全身の体重を込めてぶつかる。  硬い。ぶつかった右肩の骨が痛む。  両手で腰の辺りを掴まれ、そのまま投げ飛ばされる。  地面に転がるが、今度は受け身を取る。  すぐに立ち上がり、別の壁に向かっていく。  気づいた壁は背を向けて走り出す。  逃がすか。足に力をこめる。これでも足の速さには自信があるんだ。  壁も必死だ。両手を振りながら、逃げていく。  追いつけない。逃げ足の速い壁だ。少しずつ距離が開いていく。足を緩める。  肩で息をしながら考える。どうやら壁にも個性があるらしい。  少し離れた場所で、逃げていた壁がこちらの様子を伺っている。  息が切れた様子もない。そもそも呼吸しているかどうかすら怪しい。  後ろを振り返る。すぐ傍に壁がいて驚く。気配すらしなかった。  壁はぼんやりと立っている。 「ここはどこだ?」訊ねる。反応はない。  質問を変える。「自分はどうすればいい?」  無反応だ。ゆっくりと右手を伸ばし、壁に触れてみる。ほのかに温かった。  抵抗する様子もないので、掌で押してみる。熟れたキウイのように柔らかい。もう一度押そうとした瞬間、壁は姿を消した。 「さてどうしたものか」  およそ取り得るアプローチはすべて試したと思うが、状況は変わりそうにない。  ゲームなら終わりがあるはずだった。もし、ゲームでも何でもないなら、目的もわからぬまま、延々と壁と過ごし続ける。  地獄だ。目の前が暗くなった気がした。  いつのまにかたくさんの壁に囲まれていた。手足の向きから判断するに、こちらを見ている。  それなのに、自分が一歩でも踏み出すと、すぐにどこかへ消えてしまう。  なんて勝手なんだ。そして、そんな壁達に右往左往するだけの自分の無力さにうんざりする。  まだ取っていない行動があった。もしかしたら、壁を意識しすぎているのかもしれない。  壁なんか存在しない。そう考えようと思っても無理だった。なぜなら、正面の壁がこっちに向かって大きく手を振っているのだから。  手を振り返す。恥ずかしがった様子で、背を向け走り去ってしまう。  ひとりぼっちになる。壁達のいなくなった世界は暗くさびしい。  歩いてみることにする。この場所に何かヒントはないか。  最初に出会ったのは、その場にかがみ込んだ壁だった。泣いているのか。壁は地面に突っ伏している。  傍を抜け、先に進む。ライフルを構えた壁がいた。狙いをこちらに向けている。  発砲音に目を瞑る。痛みはない。  目を開ける。先程の壁は倒れていた。隣には拳銃を構えた別の壁が立っている。  拳銃がこちらに向けられる。と同時に、壁の足下から炎が上がる。火のついた壁は床を転げ回り、黒ずみになる。  さらに先へと歩いていく。たくさんの白い壁が牢に捕らえられていた。そこに空から降ってきた大きな黒い布がかけられる。  風が吹き、布が空に消える。白い壁達は黒い壁に変わっていた。  牢の扉が開く。黒い壁の集団が飛び出し、白い壁に襲いかかっていく。  押し倒し、引きずりまわす。早々に降伏した白い壁は、両手を挙げ降伏の意志を示すも、黒い壁達は攻撃の手を緩めることはない。  目の前で繰り広げられる光景に気分が悪くなる。地獄絵図だった。  争い、暴力、支配ーー後ずさりながらその場を離れ、元来た方向に戻っていく。  前方に巨大な壁が立ちはだかる。手足の生えていない本物の壁。どのくらいの大きさかわからない一枚の壁が、視界の果てまで伸びている。  仕方なく壁沿いを歩いていく。延々と続く壁を進むと、壁を見上げる白い壁達に出会う。  目線を向ける。クライミングする白い壁がいた。既にかなりの高さにいる。  壁に触れてみる。磨き上げられたような壁。ほとんど凹凸がないにも関わらず、よくあそこまで登ったものだと感心する。  白い壁がゆっくりと右手を伸ばす。と同時に、バランスを崩した壁が落ちてくる。地面に叩きつけられた壁は粉々になった。  先程まで見上げていた壁達は落ちた壁に近づきもせず、その場から離れていく。  落下した壁に近づく。粉々になった壁に、今の自分の状況を重ね、胸が苦しくなる。  巨大な壁から離れる。もはや誰にも出会いたくなかった。  それなのに、シャベルで穴を掘る白い壁に出会う。壁の傍には、横たわったままの壁がいた。  壁はシャベルを置くと、横たわった壁の両脇を抱え上げ、穴まで運んでから、もう一度シャベルを手に取り、足を埋める。  壁の死体はそのまま墓標のようになる。シャベルを置いた壁は、膝を折り動かなくなった壁を抱きしめる。  その姿に胸が痛んだ。ただ純粋に寄り添ってあげたいと思った。  駆け寄ろうとする。しかし、何かに遮られ、近づくことができない。目の前に見えない壁があった。  自分は何もできないのか。誰かに寄り添うことも。  抱きしめる壁の背後からライフルを持った白い壁が近づいてきた。 「やめろ!」そう叫ぶと同時に大風が吹き、身体が舞い上がる。 ――ガシャンという衝突音が聞こえると同時に、ゆっくりと地面に着地する。  無傷だった。軽自動車が電柱にぶつかり大破していた。  イヤホンを外して、駆け寄り、運転席をのぞき込む。高齢の女性がぐったりとしている。  割れた窓から「大丈夫ですか?」と声をかける。  反応がない。衝突音を聞いて、家から飛び出してきた男性に「119番してください」とお願いする。 「大丈夫ですか?」もう一度呼びかける。  だめかもしれない。そんな考えが頭をよぎる。 「大丈夫ですか?」女性の肩を揺する。 「大丈夫ですか?」今度は叫ぶように耳元で呼びかける。  ゆっくりと女性の目が開く。 「大丈夫です。助かります」大声で叫ぶ。女性がかすかに頷く。  その瞬間、誰かに抱きしめられた気がした。冷たい風のような存在に。
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