第一章 夢

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高校入学 春。 「涼子がいなかったら私ヤバかった」 家から自転車で15分の距離にある公立高校に無事入学が決まり、教室に入った私は安堵していた。 中学三年の受験生だった年、担任に呼び出され、学年末のテストの順位を明かされた。何度も聞きに来いと言われていたのだけど、私はそれをずっと無視していた。理由は簡単だ。点数が一桁だったから、聞くまでもないと思っていた。度重なる転校で授業は前後し、いつしか全くついていけなくなっていたのだ。 父親から私立は行かせないと何度も言われていたし、もう働くしかないのかも知れないと思っていたら、涼子が放課後毎日図書室で過去問のプリントを持って来て私に勉強を教えてくれた。 最後にテスト方式で一番新しい過去問をして採点をしてもらった時、点数は全教科80点以上だった。 「一ヶ月であれだけ出来るんだもん、私もビックリしたよ」 涼子は相変わらず大人びた反応で笑った。 「私もビックリしたけどね、頭良いのに何で涼子が私と同じ学校なんだって」 「言ったじゃん、近いから」 「理由が涼子らしくてなんか安心するわ」 高校生になって、私達は一層距離が近くなったような気分だった。 大人になったわけではないのに、廊下を歩けば男女がイチャイチャしている風景があり、中学の頃みたいに幼稚な男子、女子、のような垣根はなくなったように思う。 私たちは、少しずつ自由に近づいているんだろうか。 彼氏、彼女かぁ…。 羨ましいと純粋に感じていた。「好きな人」という感覚は全く分からないくせに、私は結婚願望が強かった。両親のようにはならない。私は幸せになる。子供を産んで、うんと安心を与えて、生まれてきて良かったと感じさせたい。そう思っていたのだ。 「食堂行く?」 「あぁ…今日はいいや。スタジオ代払わなきゃだし」 「てかさぁ、いつまであのおじさんバンドとやってくの?」 涼子は机に頬杖をついて眉根を寄せた。 私は涼子の机に突っ伏しながらぼやく。 「足があれば辞めるのもありだけど、まだ自分じゃ動けないしさぁ」 「送迎付きバンドだもんねぇ。ドラムの遠藤さん、絶対有希の事、好きなんだよ。」 「…ロリコンじゃん」 顔を顰める私に、涼子はケラケラ笑いながら、「高校生になったから、ロリコンじゃないんじゃない?でも、まぁ、なんかあったら援交になっちゃう?」 「ならないっ!大体何も起きないからっ!」 涼子に言い返してから、ゆっくり目を閉じる。すると自然にあのカッコイイバンドマン達が浮かんだ。 私の中で、あの一回きりが彼らを美化し、憧れを煽った。 いつかあんなバンドを組みたい。 そう願っていたら、まさかの話が転がり込んで来たのだ。 「探してる?」 「うん、そうなんだ。有希ちゃんは知らないかも知れないけど、ここらへんじゃもうかなり有名でね、デビューまで決まってたんだけど…そういう世界によくありの引き抜きがあったみたいでさ」 よくあり、引き抜き? 高校生の私には難しい単語が飛び交い、いつも行くスタジオの経営者である土井(どい)さんは早口に話を進めた。 土井さんは瓶底のような分厚い眼鏡をかけていて、もう少なくなった髪を腰まで伸ばしていて、田んぼ仕事をするせいか色が浅黒く、顎がしゃくれていて初めて会った時は正直凄く怖かった。だけど、話せばただの音楽好きで、旦那さんに先立たれて独り身になったお母さんと、この田舎で田んぼとスタジオを経営している優しい中年男性だった。 「遠藤さんにはこの話は内緒ね。有希ちゃん、一回会ってるけど覚えてないかなぁ、田舎じゃ見ない派手髪集団なんだけど」 顎を撫でながら土井さんは天を仰ぐ。 「土井さん、話が難しくて…」 会った、会ってない以前の話だ。内容が頭におさまらず顔を顰めると、後ろで縛った細い毛束を揺らして土井さんはベンチから立ち上がり、電話番号を書いたメモを渡してきた。 「遠藤さん準備終わっちゃうな。とにかく、ボーカルが抜けて、メンバーを探してるんだ。これ、ドラムの子の番号。良かったらかけて。有希ちゃんの事、顔が良いって言ってたから。フロントマンは顔命だからね。」 土井さんは早口のまま紙を私に押し付けてスタジオに戻っていった。 くしゃくしゃになった小さなメモを広げる。 「シ…バタ…あきら?」 殴り書きに近い名前を読み上げ、有希ちゃ〜んと呼ぶ声に驚き、その紙をポケットに押し込んだ。 その日の練習はボンヤリしていたのであっという間に終わった。 帰りの車の中、遠藤さんが少し冷たい声で呟いた。 「有希ちゃん、今日、何かあった?」 私は男の人の洞察力に驚いた。父親など私がタバコを吸うようになった事さえ気付かない。それどころかリストカットしていたのに気づいても何も言ってこなかった。気にされるのに慣れていない私は分かりやすくオロオロしてしまったのかも知れない。 「い、いえ、特にっ…あぁ、テストが期末…あんまりで…えっと…」 「ふふ、ごめん、ごめん。そんなに焦らないで。怒ってないよ?今日、歌、あんまり楽しそうじゃなかったから心配しただけ」 ハンドルを握って前を向いたまま優しく話す遠藤さん。 男の人は距離感が近くなるとみんな父のように威圧的で攻撃的な生き物になるのだと思っていたけど、どうやら違うらしい。遠藤さんは仲良くなるたびに優しくなる。涼子が言う、私の事が好きなんだと感じる事がないわけじゃない。ただ、私の心は微塵もときめかない。相手は既婚者の40を超えたおじさんだ。 「ごめんなさい…ちょっと…体調悪いのかな」 私はさっきと打って変わって上手に嘘をついた。スカートのポケットでくしゃくしゃになったメモが火を吹くんじゃないかと思うくらい熱く感じる。 「大丈夫?気づかなくてごめんね。今日は早く休むんだよ」 遠藤さんは銀縁の眼鏡を押し上げてハンドルを強く握った。 ごめんなさい、ごめんなさい…。 心の中で何度も謝るくせに、気持ちは電話番号の数字を思い出していた。青い空に雲で数字を書くように。 日曜日に練習する時はお昼間に集まる。 帰ったのは14時だった。 夏休み前の期末試験は遠藤さんに言ったように悪かったわけじゃない。中学の時とは比べられないくらいテストの点数は良かった。勿論、体調も悪くない。 自分の部屋に入ってすぐに扇風機を回した。 襟元を引っ張り風を浴びる。薄いTシャツが膨らんで首筋に張り付いた髪が靡いた。 ゆっくりポケットに手を突っ込んでメモを取り出す。 「夢じゃないな、これ」 大体いい事なんていつも夢だった私は自分に言い聞かせるように呟いた。 扇風機の風に柴田彰と書かれたメモがヒラヒラはためいて、暫くそれを見ていた。 暑さがやっと和らいで、ベッドに腰を落とし電話の子機を握った。 それから、フゥーッとゆっくり息を吐いて、私はメモの番号より先に涼子の家に電話をかけていた。 「あ、もしもし、早川と申しますが涼子ちゃんはおられますか?」 電話に出たのはおばさんで、ちょっと待ってねと優しい声でオルゴールの音が鳴り始めた。 私はその曲に合わせてフンフーンと鼻歌を歌ってしまう。ガチャッと涼子が電話に出ると「また歌ってる」と笑った。 「保留の間、暇なんだもん。」 「ハハ、で、なんかあった?今日練習じゃなかった?」 「うん、帰ってきたとこ」 流れで、今日土井さんから受けた話を涼子に聞かせた。 「それってさ、有希がずっと憧れてたあのピンク髪の人のバンドじゃないの?」 涼子は私より分かりやすく興奮していた。 語気が強く早く電話しなよっ!違う人見つかっちゃったら話が無くなっちゃう!と私を煽る。 私もそうかな?と不安になってきた。 「早くかけな!」 「で、でも!遠藤さんは?どうしたらいいの?」 「どっ!…どうしたらって…辞める?しかないよね?」 「…車…ないし…今だってスタジオ代、たまに出してくれるから毎週入れてる…」 涼子は暫く黙っていた。私も同じように黙ってしまう。 「聞きな!恥を捨てて!あの一回しか会えてない人達でしょ?話が流れたら会う事もないだろうし、遠藤さん切るのはその後でいいじゃん」 堰を切ったようように話始めた涼子に圧倒されながら、私は首だけをうんうんと縦に振った。 「聞いてる?!」 「きっ聞いてるっ!電話っ!してみるっ!」 「よしっ!切るよ!」 「うん!」 涼子が話していた内容は今までお世話になった遠藤さんには酷すぎる内容だ。だけど、女子高生は欲望のままに生きる。それが若さなのだとつまらない事を考えながら、震える手で子機を握り直した。 携帯電話の番号を押す指がもたつく事にイライラしながら胸を押さえた。 口から何かが出そうだ。 呼び出し音がして、私は一瞬電話を切りそうになった。 相手は今まで緊張もしなかったおじさんではない。おそらく20代で普通にモテる類いの派手な人生を生きている人だ。 私は見た目ばかりが派手で、中身は涼子のように地味で真面目で臆病なのだ。涼子を悪く言っているのではない。自分の中で涼子は絶対的な味方だからだ。 自分の喉から、ゴクッと漫画のような唾を飲み込む音がした。 「…もしもし?誰?」 いつも遠藤さんに電話をかけて返ってくる低い落ち着いた声とは音の違う声が返って来た。 「あっ!あのっ私っ!土井さんのスタジオを使ってる早川と申しますっ!!」 「……」 「ぁ…あの」 「ああっ!スタジオのっ!」 「はっはいっ!」 「ふっ…ハハ…アハハッ!」 「…ぇ…」 「いや、ごめん、ごめん!申しますとか言うからっ!何かの勧誘かと思っちゃったよ!」 電話の向こうで盛大にウケている相手をよそに私は身体中に火が付いたみたいに熱く、赤くなっていた。恥ずかしい。電話の対応は礼儀正しくあれば相手の親に悪い印象は与えない。ずっと疑わなかった事を笑われて、消えてしまいたいような心持ちになっていた。 「もしかして、有希ちゃん?」 急に馴れ馴れしい調子で問いかけられ、電話だというのに、顎を引いてしまう。 「は、はい…土井さんからメモを渡されて」 「あぁ…そっか!土井さん渡してくれたんだ!何か、遠藤さんのお気に入りだから難しいよって聞かされててさ、ちょっと諦めてはいたんだよね」 「そ、そうですか…」 「え〜っと、そうだな…有希ちゃん、今日って今から暇?」 「へ?」 「今から、迎えに行っても良い?話、電話じゃなんだからさ」 「…あぁ…はい…」 そこから、あっという間に住所を聞かれて、私はサラサラと質問に答えていた。気づいたら、後一時間後には家の前に迎えに来るという。 私は彼をコミュニケーションお化けだと思った。
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