53人が本棚に入れています
本棚に追加
慌てて鏡の前に行く。
前髪を何度も確認して、服も着替えた。汗臭くないか、クルクル回ったり、脇を上げてクンクン犬のように鼻をひくつかせた。
時間はすぐにやって来て、緑色のクラシカルなデザインの軽自動車が家の前に入って来た。
私は慌てて飛び出す。
「わぁ〜本物の有希ちゃんだぁ〜」
運転席の窓を開けて私を見るなりニッコリ笑って小首を傾けた。
人懐っこい笑顔で、ポンポンと助手席のシートを叩く。
「出れる?」
私は声が上手く出ず、首を縦に振った。
助手席のドアを開けると、ビックリするくらい良い香りが充満していて、一気に心臓がバクバク音を立てた。
何の香りだろう?強すぎるくらい香るその香りで頭の中が真っ白だった。
車はゆっくり家の敷地を出て、まだ認識出来る道を暫く走った。途中、自販機で缶コーヒーを買って手渡され、それを飲むのでさえ緊張して、いつまでも両手の中で汗をかき始めた缶が服を濡らした。
着いた場所はどこかの公園の駐車場だった。
運転席を見ると、赤い短髪が目に眩しい。
「自己紹介からするね。俺、ドラムやってる柴田彰(シバタアキラ)、よろしく」
「よ、宜しくお願いします」
私はまだ引き受けるとは言ってもいないのに、つられて妙な挨拶をしてしまった。
「土井さんから聞いたかも知れないんだけど…俺らのバンドね、デビューが決まってたんだ。でも、ボーカルの花(ハナ)が…引き抜かれちゃってね。」
「引き抜き…」
ポツリ呟くと、柴田さんはあぁ…と言って、それを詳しく説明してくれた。
つまり、ボーカル以外はいらないと言われ、ボーカルのみ、プロの世界に引っ張られてしまったらしい。つまり今、彼らのバンドはボーカル不在なのだ。一度だけ見た事のあるウェーブヘアの女性を思い出す。
「そんな事…あるんですね」
「よくある話だよ。俺らもアルバムをすぐ出せるだけのストックを50曲はいつまでに作れって試されて、それが間に合わなかった。間に合ってたら、話は変わってたのかも知れないけど…力及ばず…結局ボーカルだけ持っていかれちゃってね。今、探してる最中。」
「それで…どうして私なんか」
一度デビューが決まっていた凄いメンバーだ。私は怯えるような上目遣いで柴田さんを見た。
「一回会った時に、ハッチが良いねって言ってたんだ。あ!ハッチってギターしてるメンバーね。斉田一(サイタハジメ)っつーんだけど、みんなハッチって呼んでる」
「それって!ピンクの髪の方ですか!」
勢いよく聞いてからカッと顔に熱がこもった。
でしゃばった身体をゆっくりシートに戻す。
柴田さんは一瞬ビックリしたような顔で私を見てからヘラッと笑った。
「そうそう。一回しか会ってないのに良く覚えてたね。ピンクがハッチだよ。後、緑色の髪がベースの安西紘(アンザイヒロ)。アンちゃんて呼ばれてる。俺はね、彰だからアッキー。有希ちゃんもそう呼んでよ。」
「えっ」
派手な見た目とは裏腹に地味な私は言われた事にビックリして、目を見開いた。
「あぁ〜…イヤ?」
柴田さんは私の顔を見て苦笑いする。
私はしまった!と焦って首を左右に振った。
「ハハ、なら良かった。有希ちゃんはうちに入ったらユッキーだね。」
柴田さんが簡単に私にあだ名をつけた事が衝撃で、膝で握ったままにしていた缶コーヒーに視線を落とした。
「あれ?もしかしてユッキーって呼ばれるのイヤだった?」
柴田さんは無遠慮にガンガン攻めてくるコミュニケーションお化けの割りに、人の機微を感じとるのがどうも得意らしい。
「い、イヤじゃないです。あだ名とか…つけて貰った事…ないから」
チラッと柴田さんを見ると、ポカンと驚いた顔で私を見ていた。
顔が赤くなるのが分かる。これは赤面症というのだろうか。大したことのない会話なのに、恥ずかしいと顔に熱がこもる。
「そっかぁ…有希ちゃん、可愛いね」
私は何を言われたのか分からず俯いた顔を上げて柴田さんと目を合わせた。
柴田さんはニッコリ微笑み、私の持ったままのコーヒーを指差す。
「飲まないの?温くなるよ?…あ、コーヒー嫌い?」
質問の多い柴田さん。そのせいか会話が途切れず、私はどこか安心していた。沈黙ほど気まずいモノはないからだ。
「コーヒー、好きです」
「そっか、なら良かった。あ、タバコ吸っても良い?」
柴田さんは答えを聞く前に窓を少し開けた。
ポケットから出したシルバーのジッポライターがカシャンと音を立ててタバコに火をつける。
元々好みではないにしろイケメンに違いない柴田さんの横顔はかっこよかった。遠藤さんには申し訳ないけど、同じタバコを吸う姿には見えなかったのだ。
柴田さんは煙を吐き出して、私の方を向くと、いつものように小首を傾げて笑った。
この人の癖なんだな、可愛いなと思いながら、微笑み返すと、彼は突然真剣な目をして言った。
「入ってくれない?うちに」
私はその丸い瞳に吸い込まれるように頷きかけた。
思いとどまって、唇を噛み締めた私は凄い。
こんな恵まれた話に乗らないなんてバカだ。分かってはいたけど、自分の家庭環境がブレーキをかけた。
「え、遠藤さんに話さないと。…私、足がないから、送り迎えして貰ってて…練習回数が多くなると、たまにスタジオ代も出せなくて出して貰ったり」
「…有希ちゃんが心配なのは送迎とお金?」
柴田さんは窓に向かって煙を吐く。
「…はい」
「うちに入る事は問題ない?」
ないどころかお願いしたいくらいだ。
「私なんかでいいなら…」
柴田さんはタバコを持った手でハンドルをコンコン鳴らし、ウンと一人頷いた。
「大丈夫。送迎は俺がするよ。スタジオ代はどのくらい出して貰ってたの?」
「月に一回だけとかです。でも毎月じゃなくて…本当にたまに」
「なら問題ないよ。有希ちゃんさ、今までコピーバンドだったんだよね?」
「はい」
「うちはオリジナルになる。自分達で曲も詞も作るんだ。有希ちゃんは詞とか書ける?」
私は小さく頷いた。
「最近まで、小説家になりたくて…書くのは得意です」
初めて少し胸を張った気がした。
柴田さんは「すげぇ…」と感心して「最高じゃん」とニッコリ笑った。
「遠藤さんドラム上手いでしょ」
柴田さんはタバコを一本吸い終わり、灰皿に押し込みながら呟いた。
「なんか、祭りで一回見たんだよね。ステージ。スタジオ練でもたまに漏れてくる音がエグいなぁって。すごいテク使ってたり。知ってる?あの人、昔ね、スタジオミュージシャンだったんだよ」
車のシフトを握ったので、私は戻るのだな、と一瞬寂しくなりながら、話の内容に驚いていた。
「スタジオミュージシャン?」
「そ。バックバンドみたいな。だからね、めちゃくちゃ上手いんだよ。歌いやすかったんじゃないかなぁ、スピードとかね、CDみたいに一定で叩ける奴ってなかなか居ないんだ。音源通りが難しいと簡単にする奴とか普通にいるし」
私はスタジオ練習を振り返る。確かに当時、大きな音には驚いたけど、CD通りの太鼓回しに歌に入る場所を間違ったりする事はなかった。リズムが安定しているから、他の楽器が狂っても戻りが早かった。あれが普通だと思っていたがとんだ勘違いのようだ。
「その顔じゃ、知らなかったみたいだね。遠藤さんかっこいいなぁ。正体明かさないなんて…」
「そうですね…」
「辞めれそう?」
信号で止まった車。
柴田さんは私の顔を覗きこんだ。
「だ、大丈夫…です」
顎を引いてシートに張り付いた。
そこからは、柴田さんがあまり喋らず、また私は緊張を取り戻していた。
「し、柴田さんっ」
家の前に着いた車から降りる私は慌てて振り返る。
「俺のことはアッキーね。なぁに?」
うっと声に詰まりながら、ソワソワする私は意を決して名前を読んだ。
「ア、アッキーさん!あのね…私、頑張るからっ!がっ頑張るのでっ…宜しくお願いしますっ!」
「うん。宜しく!」
アッキーさんは名前を呼ばれて満足そうに微笑み、車は行ってしまった。
ハァ〜っと肩の力が抜けていく。
缶コーヒーを握ったまま、クルクル回る。回ってジャンプしたら、砂利がジャッと音を立てた。興奮冷めやらず部屋に入ると、これでもかというくらいしっかり握っていた缶コーヒーは、すっかりホットに変わっていた。
最初のコメントを投稿しよう!