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生まれてこの方、運がいい時などなかった。 生真面目に生きているはずなのに、厄介ごとに巻き込まれ、濡れ衣を着せられ。それでも卑屈にならずに過ごしていた因幡(いなば)だが、その日は間違いなく人生で最大の凶日だった。 「おい、あんたの巾着に切れ込みがあるぞ!掏摸(すり)に遭ったんじゃねぇか?!」 浅草の人混みから突発的に聞こえた男性の声。まるで他人事と捉えていた因幡は、少し視線をずらした先に二つの財布を(たもと)に隠す男を見た。そしてにわかに走り出したかと思うと、対向を歩く人物の肩にぶつかり、あたかもその青年が持っていたかのように地面へと財布が落とされた。 それは周囲にいた人々の視線を集め、持ち主と思わしき男性も振り返った。 「掏摸はお前か!」 詰め寄る男性に胸ぐらを掴まれた青年は、わけも分からず目を瞬かせる。犯人はと言うと、足早に人混みに紛れてしまった。ただでさえ運が悪いのだから、因幡は極力面倒ごとは避けて通りたい。 しかし、不運にも巻き込まれた青年は因幡と同年代と見え、咄嗟に二人の間に駆け出してしまった。運の悪い自分となんとなく重ねてしまったのだ。 「この人は違います。掏摸の犯人ではありません」 「はぁ?なんで分かんだよ」 「本当の犯人は貴方に財布のことがバレて、この人に罪を着せようと…」 「そう言ってお前らがグルなんじゃねぇのか?!」 「だからそれは…!」 「お兄さん、俺のことはええから」 背に(かば)った青年が(なだ)めるように言い、因幡は後ろを振り返った。 「言葉が通じるような相手やなさそうやし、もう行き?」 「こいつ、掏摸までしてまだ開き直るか?!」 青年の物言いが神経を逆撫でたらしく、握られた拳に因幡は側に立つ屋台の旗を取った。振りかざされた腕を止め、薙刀の要領で体を弾く。地面に打ち捨てた男性に周りから悲鳴が上がった。 「君、こっち!」 因幡は旗を捨てた手で青年の腕を掴み走り出す。この人混みに紛れてしまえばこっちのもので、暫く走った所で足を止めると、息を整えながら辺りを見渡した。どうやら先程の男性は追いかけて来ていないらしい。 「厄介ごとに巻き込んでごめんなぁ」 同じく肩で息をする青年は呑気な声で言った。相手の男性に詰め寄られた時もだが、慌てる素振りは欠片も見せず悠々としている。 「いえ…。犯人の姿を見つけたのに咄嗟に何も出来なくて、多分バチが当たったんだと」 罪悪感に苛まれながら言うと、青年がぱちりと目を瞬かせた。 「そんなんお兄さん関係ないやん。財布取る方が十割悪いやろ」 「それはそうですけど…。昔から、運が悪いんです」 「運が悪い?」 初対面でなにを話しているのだと思いながら、なんだかもうどうでもいいやなんて、因幡は諦めの境地に立っていた。本当ならばもっと早くそうしていればよかったのに、もしかしたらなんて神に縋って、期待をして生きてきた自分が悪い。 「俺、神楽坂で用心棒をしていたんですけど、芸者に手を出したっていう噂で仕事を失って、住んでいる長屋は取り壊しで今月末には立退を余儀なくされて、数少ない友人だった男に金を貸したら行方知れず。貯金はもうありません」 「ほんで人生に疲れて(*1)草十二階?」 鋭い指摘に因幡は背筋が冷えた。パッと顔を上げると、青年の背後に聳え立つ塔が見える。浅草十二階とは浅草名物の高層の建物。正式名称を凌雲閣(りょううんかく)という。展望台以外に店がいくつも入り買い物が楽しめ、芸者の写真を用いた美人コンテストなる催しも(かつ)ては開催されていた。 その圧倒的な高さから自殺の名所とも言われる。実際、凌雲閣から飛び降りた人間はいないのだけれど。 「もちろん、本気ではありません。意気地がない俺のことですから、展望台から下を見下ろしたら怖くて足が(すく)むに決まってるんです」 そう因幡が苦笑をすると、鼻先で笑う微かな声が聞こえた。それは人を馬鹿にするような憎たらしいものではなく、興味深げなものに向けた笑いに近い。 「死にたいって思うぐらい人生に疲れとるわりに、道中で人助けやなんてえらい人情のある人やなぁ」 因幡に確固たる善意があったわけではないけれど、確かに青年の言う通りだ。続け様にくすくすと笑われ、因幡もつられて笑いを刻んだ。 「ほな、助けてもろたお礼にえぇもんやるわ」 「え?いや、いいですよ。そんなの」 「えーからえーから」 青年は袂から包みを出すと、周りの包装紙を解いた。それは絵ハガキの束だったらしく、植物や風景の絵が描かれていた。 「これが俺の仕事。自分で描いて売ってるんや」 「上手いですね」 「せやろ。しかも、そんじょそこらのハガキ(*2)と一緒にしたらあかんで。聞いて驚け、一枚一円也」 飄々(ひょうひょう)とした口調で発されたその値段に、因幡は数秒ほど考えた。 「たっけぇ!ぼったくりかよ?!」 「あははっ…!お兄さんえぇ反応するわぁ」 思わず出た本音に気を悪くする風もなく、青年は腹を抱えて笑う。しかし、因幡が驚くのも当然で、都内の月の平均家賃が約五円の世の中だ。それがハガキ一枚一円だなんて、驚くなという方が難しい。 「うちのハガキは縁起がええんよ。これを受け取った相手は必ずツキが回ってくる」 「あー……。そういう(うた)い文句なんですね」 「謳い文句言うなや。ほんまに必ずあるんやから」 「へぇー」 「あっ、信じてへんやろ」 「まぁ、神に見放されたと思うしかないほど運が悪いので」 「あかんなぁ、これやから最近の若者は…。ほんなら、ここにお兄さんの住所書いてや。長屋の立ち退きまでまだそこ住んどるんやろ?」 ハガキの束から一枚取り、青年は裏面の空欄を指でなぞった。つまりハガキの効果が謳い文句かどうか、身を持って試せということだろう。 「そんでツキが回って来たら、俺ん所に直接謝りに来てな」 「え?」 「死ぬんはそれからでも遅ないやろ」 実にあっさりと言う横顔はどこまでも穏やかで、引き止めない素っ気なさに何故だか身が軽くなった。今さっき出会ったばかりの人間に住所を教えるなんて、常識的に考えてやるはずがない。 しかし、因幡は拒むという選択肢を思いつかなかった。どうしたって運は悪いままなのだから、今更なにを気にする必要があるのだろう。 「ほな、ツキが回ったら絶対謝りに来てや」 ひらひらと手を振り、歩き出した背中を因幡は(しばら)く眺めていた。今までの人生で最も不思議な人だと言い切れる自信がある。そして後日、長屋に届いた一枚のハガキ。凌雲閣の描かれた面を見つめ、本当にこんな物に効果などあるのだろうかと疑心を抱いた。 (どうせお守りみたいなもんだろ…) 心の中で悪態を吐き、有名な画家のハガキであれば多少の金にならないかという考えさえ浮かんだ。それに兎にも角にも仕事がなければ生活が成り立たないので、因幡は口入屋(*3くちいれや)へと出向くことにした。その道すがら食堂を見つけるが、今の因幡は貯金を盗まれた上に仕事もない。目下の節約どころと言えば食費であって、空腹を訴える腹を無視して歩き出した。 「あっ、お前…!」 そんな声に因幡が振り返れば、どこか見覚えるのある男性が立っている。数秒ほど対峙し、因幡がハガキを貰う要因となった掏摸(すり)騒動を思い出した。その男性は財布を盗られた被害者で、因幡のこともグルなのではないかと疑っていた。人の多い東京でまた再会する運の悪さを嘆き慌てて逃げ出そうとすれば、判断が遅く腕を掴まれてしまった。 「この間は悪かった!」 「は…?」 拳の一つでも飛んでくるかと身構えた直後、因幡に降りかかったのは予想だにしない謝罪。 「あの後、掏摸の犯人が捕まったんだよ。それで、意見も聞かず頭ごなしに疑ったあんたらのことを思い出して…。金で解決するのも悪いが、詫びの印に受け取ってくれ」 因幡は持たされた茶封筒を前に何事かと、追いつかない思考を必死に回す。身なりのいい男性だとは思っていたが、どうやらなかなかの資産家らしい。 「あんたと一緒にいた兄ちゃんにも渡しといてくれ。疑って悪かったって」 「いや、あの人は知り合いじゃないので…」 そこまで言いかけたが、ハガキの裏に書かれた住所で家は分かる。どうせ同じ東京なのだから届けてやろうかと預かっておくことにした。 (というか、本当に良いことがあった) ほんの少し前までは阿保らしいと思っていたのが、思わぬ展開に苦笑が洩れる。男性と別れ、因幡は手元にある臨時収入に目をやった。せっかくだから口入屋へ行く前に食事してもきっとバチは当たらないだろう。そう考え、一度は通り過ぎた近くの食堂へと入った。 「はい、お兄さんもおまけの煮付けね」 「え?」 注文した定食が届くと同時に別の器が添えられ、因幡は女給(*4)を見上げた。 「昨日釣りに行ったらたくさん釣れたって、常連のお客様がくださったんですよー。だから先着で煮付けのおまけ」 そう言って去ってしまった女性を見送り、因幡は煮付けの盛られた小鉢へ視線を戻す。これはいよいよハガキのご利益を信じたくなってしまった。 (謝るついでにハガキの代金でも払おうかな) 関西のようでそうでないような、不思議な(なま)りをする青年を思い浮かべ食事を進める。そして目の前に並ぶ料理にあることを思いついた。人より飛び抜けた才なんてこの不幸体質ぐらいなのだが、それ以外に昔から些細な趣味が一つ。口入屋に行く予定は後日に回し、食事を終えた因幡は来た道を戻った。 昼餉の時刻を過ぎた頃、因幡はハガキの裏に書かれた住所へと足を向ける。到着した建物は、木造三階建ての正面玄関にハガキ屋の看板。まるで銀座にある舶来屋(*5はくらいや)のようなショーウィンドウには何枚ものハガキが並んでいた。その横にある小窓から代金を払って買う仕組みらしく、まるで煙草屋の居抜きを使ったような建物だと思った。 「あれっ、お兄さん。えらい早かったなぁ」 小窓から顔を出した漆黒の毛に、柔らかな出自不明な訛り口調。どうやら因幡が何故ここにいるのか分かっているらしく、にやにやとする口元が(しゃく)に触った。 「謝りに来いって言ったのそっちじゃないですか」 「あはは…!間違いない」 青年は笑い声を転がし、小窓の縁に頬杖を着く。 「でも、えーことあったやろ?」 笑い皺を寄せる目元に因幡は閉口した。 しかし、本当なのだから仕方ない。浅草で初めて会った時、凌雲閣へ行こうとしていたのを見透かされたように、まるで全てお見通しな彼は酷く不思議な存在だった。 「すみませんでした。謳い文句とか言って」 素直に謝れば、青年がまたクスクスと笑いを刻む。そんな彼に因幡は、右手に下げて来た風呂敷包みを突きつけた。 「ハガキの代金を払おうかとも思ったんですけど、それだと味気ない気がして…。昼餉(*6ひるげ)、食べました?」 「昼餉?食べてない…てか、なんなら朝餉(あさげ)もまだやけど」 「は?」 「今さっき起きたで」 「それは寝坊が過ぎるでしょう。(*7)午のドンなんてとうに鳴ってますよ」 年は因幡と然程変わらないと思われる二十代前半の容姿で、まるで子供のような寝汚なさ。果たしてこのハガキ屋の開店時間は何時なのだろう。 「出会ったばかりの人間が作った物は食べられないと言うなら、このまま持って帰りますけど」 「えっ、お兄さんが作ったん?」 「昔から人に誇れるのは不幸体質かこれぐらいです」 意外そうな顔で包みを受け取った青年に、因幡は居心地の悪さを感じた。不幸体質を嘆く中で唯一得意な料理。しかし、人にそれを振る舞ったことは一度だってない。 「じゃあ、俺はこれで」 「ちょっ…!ちょっと、そんな急がんでもええやん!どうせ仕事ないやろ?」 腕を掴まれると同時に言われ、因幡は苛立ちを感じた。この男は濡れ衣で失業した相手になんて無神経なことを言うのだ。 「寄ってってや。せっかくの昼餉も話し相手がおらんだらつまらんし」 正面玄関を指し示す青年に因幡は少しばかり悩み、半ば投げやりな気持ちで戸を開けた。 建物の外観からして敷地面積が狭いことは予想していたが、縦にばかり高い三階建ての室内には傾斜の急な螺旋(らせん)階段が伸びていた。居住はきっと二階から三階なのだろう。青年は店番をしながら絵ハガキを描いていたらしく、辺りに広げた画材を全て隅に掻き集め、風呂敷を解いた。 「うわっ、お兄さん料理上手いんやなぁ!どこぞの料亭の仕出しやんか」 「どうも」 「あ、ちょお待って。お茶入れるわ。前にご贔屓さんから貰った加賀棒茶があるんよ」 早口に捲し立て、忙しなく奥に行っては戻ってくる様子を因幡はただ黙って見つめていた。落ち着きのない人だと思いながら、わざわざ上等な茶葉を引っ張り出してくれることが気恥ずかしくも悪い気はしない。 火鉢の上に置かれていた鉄瓶からお湯を注げば、途端空間に漂い始める香ばしい棒茶の芳香(ほうこう)。 「うま!なにやこれ、稲荷寿司の中なんか入っとる」 「小松菜と胡麻です」 「へぇ、初めて食べたわー。特にこれ…甘露煮って言うんかな。今まで食べたてきた中で一番美味い」 青年が箸で持ち上げたのは、さつまいもの甘露煮だ。ちょうど柚子があったので一緒に煮て、甘さの中に酸味と爽やかさを残した。 「ご馳走様!助けてもらったお礼のはずやったのに、なんや逆に悪いなぁ」 「いえ、お粗末様です」 「お兄さん、名前なんて言うん?」 律儀に両手を合わせ、湯呑みを持ち上げた青年が問う。そう言えばハガキには住所だけ書いて、名前は記さなかったのだったか。 「因幡(いなば)です」 「おっ、名前似とんなぁ。俺、稲荷(いなり)って言うんよ」 「稲荷……縁起良さそうですね」 「せやろ。敬称も敬語もいらへんし」 「おいくつなんですか?」 「数えで二十四」 「えっ」 「え?」 思わず出た本音の声に因幡は慌てて口を閉ざす。しかし、時は既に遅い。因幡は数えで二十二。つまり稲荷というこの青年より二つ年下になる。 「さては俺のこと同い年か年下や思うてたやろ」 「いや!そんなことは……」 「まぁ、ええけど。ところで因幡、次の仕事の当てはあるん?」 稲荷は側の卓上から敷島(*8しきしま)(煙草の銘柄)を取ると、一本口に咥えマッチを擦った。急に現実めいた声色に因幡は口籠もり、(おもむろ)に視線を落とす。花街で着せられた濡れ衣は街全体に広がっているに違いない。そういった情報の早い隔離された世界なのだ。ならばもうあの界隈で仕事など出来るはずもなくて、身寄りも学も伝手もない因幡は八方塞がりだった。 「因幡さえよければうちで働かん?」 そんな誘いに、因幡は弾かれたように顔を上げた。稲荷の吐いた細い紫煙(しえん)が尾を引き、怪しくも濃い匂いが加賀棒茶の香りを塗り替える。 「店は俺一人でやってるんやけど、絵を描きながらやとちょっと不便でなぁ。そうや、長屋も追われるって言うてたな。これもなんかの縁やしうちに住み込みで店番したらええやん。食と住は約束したるで」 願ってもない話に因幡は暫く呆然とした。 出会って間もないこの男の話に乗っていいものか。友人に金銭を持ち逃げされた直後でなくても、こんな上手い話は疑心を抱いてしまう。しかし、これを逃した先で、果たして因幡は新しい仕事や拠点を見つけることは出来るのか。悩んだ末にここまで来たらもうどうとでもなれ、なんて清水の舞台から飛び降りる勢いで誘いに乗った。 結果、二年経った今では、不幸体質なんてものを欠片も感じなくなったのだから、稲荷の描くハガキはやはり本物なのかもしれない。 「稲荷!朝餉出来たって言ってんだろ?!何回も呼ばせんな!」 傾斜の急な螺旋階段を上り、朝の恒例行事。下から声をかけても返事はするが、全く起きないのだからそれも無意味だと因幡は思う。 「もう少しだけ…」 「そう言って何時間寝るんだよ!なんなら昨日も一昨日も聞いたわ…!」 自室の畳に転がる稲荷を強引に起き上がらせ、因幡は画材で散らかった部屋に溜息を吐いた。例に漏れず遅くまで絵を描いていたのだろう。彼にとってそれが仕事だとしても体に悪いし、毎朝どうにかこうにか起こす因幡の身にもなってほしい。 「五分で来なかったら朝餉下げるからな!」 「えぇー?そう言って因幡下げたことないやーん」 「(うるさ)い!仕事行くから早く食って片付けろ!!」 「はいはぁーい」 最初こそ使っていた敬語はどこへやら。 因幡が(*9)売りの仕事を始めたのは、確かここに越して来てすぐだ。開店時間が遅いハガキ屋の店番だけでは時間を持て余すので、自炊など全くせず持て余していたらしい(*10くりや)で一品料理を作り、朝の時間帯に売り歩くようになった。それが次第に軌道に乗って、ここらではちょっと名の知れた煮売り屋になったのだから、人生なにがあるか分かったものではない。 その煮売りの残りで朝餉も用意する為、二人にとっては一日の中で朝餉が最も充実していた。 「あっ、さつまいもの甘露煮あるやん」 厨に立つ因幡の肩口から顔を出した稲荷が、微睡む声を弾ませる。それは初めて会った時からの彼の好物だった。 「いいから飯運んで」 「味噌汁は?」 「頼んだ。あ、待って。卯の花も」 二人で忙しなく食卓を整え、(ようや)く腰を据える。因幡の作るさつまいもの甘露煮は独特で、きっかけは稲荷の好物である角砂糖からだった。 絵を描く途中の手が止まった時、口寂しいのか稲荷は煙草を吸うか、金平糖をそうするように角砂糖を噛む。飲み物に甘さを足す物とは違い、中に粉末のコーヒーを閉じ込めた角砂糖。二つ程お湯に溶かすと甘いコーヒーになるという仕組みで、洋食屋などの飲食店で食後に出されることが多いのだ。 ライスカレーに隠し味でコーヒーを入れる店があると聞いて、さつまいもの甘露煮を作る際に、コーヒー入りの角砂糖を使ってみたのが始まり。これが妙に香ばしく不思議な香りで、煮売りの商品としても出すようになった。 「じゃあ俺もう行くけど、二度寝とかするなよ」 「んー」 一足先に食べ終えた因幡はそう釘を刺し、腰を上げる。分かっているのかそうでないのか、曖昧な返事に稲荷の堕落さを痛感した。 「因幡」 「うん?」 「いってらっしゃい」 そう言って毎朝送り出してくれる稲荷に、因幡は今でもあまり慣れず気恥ずかしさがある。いつか恋人が出来たり、結婚をしたりで一緒に住まなくなるのだと思っていたが、同じ屋根の下に住み始めて二年と少し。稲荷に恋人の影は微塵もない。 朝は因幡が声をかけるまで起きないし、日中は部屋に籠って絵を描く。(まれ)に二人で出かけたりもするけれど、そうでもなければ自ら家を出ることがあまりなかった。 「それでさ、昨日はどっちが悪いのどうのって喧嘩してるんだよ。夫婦喧嘩は犬も食わないってこういうことだなーって」 「そら難儀やったなぁ」 夕暮れの窓辺で栗を剥く因幡の話に、稲荷が笑って相槌を打つ。その手に筆は握られておらず、代わりにいつもの敷島とコーヒー入りの角砂糖があった。 「明日は栗ご飯?」 「いや、コロッケ。西洋風より日本人も食べやすいし、三大洋食を家で食えるのは物珍しくて売れる気がする」 手元から目を逸らさず話す因幡の視界に、何を思ったのか稲荷が侵入してきた。 「おい、なんだよ。危ない」 包丁を遠ざけたそこには、因幡の胡座(あぐら)に手を乗せた稲荷の姿。髪と同じ黒塗りの目がやけに落ち着いていて、吹きかけられた紫煙に因幡は思わず息を止める。 「悪趣味」 煙たいそれに毒を吐けば、一寸先の目元が悪戯(いたずら)に細まった。普段は人一倍喋るくせに、こんな時ばかり寡黙(かもく)になる厄介な男だ。 重ねられた唇は苦いのに、角砂糖で舌先が甘いという矛盾。好きも愛しているも囁かないこの関係は、果たしていつから始まったのか。稲荷がどう思って抱かれているのか知らないし、因幡もこの感情が恋愛からくるものなのか分からない。しかし、初めて抱いた時も今も、泣くように喘ぐその姿に、濡れた目元に酷く興奮したことだけは覚えていた。 「因幡」 事後、甘えるように枝垂れる稲荷にいつも頭を悩ませる。年上のくせに、二十代も半ばを超えて、随分と甘ったれた声で因幡を呼ぶのだ。声の端に気怠さを滲ませた妙な婀娜(あだ)っぽさが、因幡をどこまでも(ほだ)し続ける。その口に咥えられた敷島を奪い紫煙を肺に取り込めば、慣れない成分に一瞬だけ眩暈がする。そして微かに霧がかる意識にわけもなく安堵した。 「なぁ、明後日休み貰えない?」 短くなった敷島を灰皿に押し付けて問うと、稲荷が無言で視線を向けた。 「常連客の平塚(ひらつか)さんが怪我をしたらしくて、そのお見舞い」 「休みはえぇけど…。やったら俺も行く」 「はぁ?店どうするんだよ。それに稲荷は(ほとん)ど店番しないから平塚さんと面識ないだろ」 そう説明してもまだ納得がいかない様子の稲荷に、因幡は解かれた黒髪に指を通した。 「駄目?」 小首を傾げると、見下ろした稲荷が膝に頭を乗せ(うずくま)る。そして無言でそっぽを向かれてしまった。 普段は人一倍喋るくせに、こんな時ばかり寡黙になる癖はやはり同じ。けれど、本当に都合の悪い時はなにがなんでも止める男だ。因幡はその無言を了解と捉え、二日後、まだなにか言いたげな稲荷を置いて(*11)道で横浜へと向かった。 (凄い…。想像より栄えてるし、欧米人も東京よりずっと多い) 地図を片手に辺りを見渡し、往来する人々や立ち並んだ店に思わず目を見張った。因幡は日本を出たことがないけれど、ここが日本なのか異国なのか曖昧になる程に景色が違った。異国情緒の漂う街並みを進むと、細く伸びた坂の上に洋館の三角屋根を見つける。 途中で何度も立ち止まり、息を切らし、漸く着いた頂上に後ろを振り返ると、薄らと汗をかいた因幡の襟足を心地よい風が抜けた。 見渡した街の向こうには船が見え、稲荷がこの景色を前にしたら、ハガキに閉じ込めたいと言うに違いないと思った。 (って、なんでこんな所まで来て稲荷のこと考えてるんだか) 呆れる自分の思考を振り払った因幡は進路を戻し、洋館を囲う柵からこちらを見る一人の少女に気が付いた。 「あっ、えっと…ここ、平塚さんのお宅ですよね?」 事前に聞いていた洋館の外観を見て、十歳かそこらの少女に問う。すると半結び(女性の髪型)をした少女は無言で頭を縦に振った。 「平塚さんが怪我をしたとのことでお見舞いに…。貴女はご息女でお間違えないですか?」 「うん」 二度目の頷きをした少女は門の取っ手を掴み、鉄格子の戸を内側へと引いた。 「どうぞ」 促されるがまま敷地内へと足を踏み入れ、手入れの行き届いた表庭を見渡す。一人娘がいるとは聞いていたが、平塚は確か数えで四十六。少し幼すぎやしないか。屋敷へ入った途端、香ばしくも甘やかな香りがふわりと鼻腔(びくう)を掠め、奥から出て来た女中に案内を引き継がれた。 「わざわざ山手までありがとうございます」 通された部屋の寝台で、主人の平塚が頭を下げた。自動車と接触しかけた末の怪我らしいが、あんな乗り物を前にそれだけで済んだのは不幸中の幸いとしか言いようがない。 「お顔の色が良いようで安心しました。こちらはお嬢さんからですか?」 窓辺の小瓶に生けられた紫色の花を示すと、平塚は愛おしげに微笑した。 「朝に目を覚ましたら置いてありまして、どうやらそうらしいです。セージは料理に使うハーブで増えすぎても仕方がないですし、間引くつもりだったのですが…。咲いた花を娘が気に入ったからと、放っておいたらいつの間にやらあんな風に」 平塚の視線の先を辿ると、伸び伸びと開花した紫色の花が庭で群生していた。 「娘のあや子にはお会いになられましたか?」 「はい。門の所で」 「随分と年が離れているとお思いでしょう?」 「え?あっ、そんなことは…」 咄嗟のことで因幡はつい口籠ってしまった。確かに平塚の娘を見た時、十にも満たないその容姿の幼さに疑問が全くなかったわけではない。どうやら因幡の動揺は悟られたらしく、平塚はやっぱりとでも言いたげに苦笑した。 「母親は(*12)崎の遊女でした。(*13)請けさえ考えていたのですが、病で倒れたと聞いていくばくもなく…。数年前、港崎でその娘が禿(*14かむろ)をしているという噂を耳にしたので、僕が身請けしたんです」 化かし化かされの夢現(ゆめうつつ)。 それが花街の日常で、ありふれていると言えばそれで終いの話だ。しかし、まるで化かされることを望んでいるように、平塚はさも愛おし気に話を続ける。 「間抜けだと言われても仕方ありません。自分の子かも分からない少女を引き取るだなんて」 苦笑気味に言う平塚に、因幡は返す言葉が思いつかなかった。血縁関係がないかもしれない娘。それでも一縷(いちる)の可能性に縋って彼女を引き取った。()しくは自分の血を引いていなくとも、愛する女性の忘れ形見ならと思っているのかもしれない。 「あや子は母親のことを知らされていません。いずれ話さなければなりませんが、今もこうして僕はハガキであの子の母親に化けているんです」 平塚が見せたのは、稲荷が描いたハガキだった。差出人は女性の名前で、なんともやるせない事情を悟る。 きっとそれは想い人へ向けた、そして娘に向けた愛情の一種なのだろう。屋敷を後にしても、因幡はもっと気の利いた返答はなかったかと蟠りを抱えた。しかし、悔やんだ所で仕方がないので、未だ拗ねているであろう稲荷に土産でも買って帰ろうと、重い足取りで坂を下る。そして再び山手の街並みに降り立った時、路上脇に出来た人だかりを見つけた。何やら物売りをしているらしく、人の間から覗いた店主に因幡は目を見開く。 「稲荷?!」 咄嗟に名前を呼ぶと、声に気付いた稲荷が手を上げた。駆け寄ったそこにはハガキが並べられ、客の多くは欧米人のように思われる。 「見舞いは終わったん?」 「終わったけど…。こんな所で何してるんだよ」 「出張版ハガキ屋。やー鉄道に乗ってまで来た甲斐があったわ。日本の土産にて欧米人がえらい買ってくれてなぁ」 「店は?」 「臨時休業。稲荷が来るまでは不定時開店、不定期休業やったんやから大丈夫やろ」 当然のように言ってのけた稲荷に、因幡は呆れてものが言えなかった。自分と一緒に住むまでこの男はそんな曖昧な商いをしていたのかと。あまりに突飛した行動で怒る気にもなれず、また一つ溜息が溢れた。すると、人混みからひょこりと半結びが覗き、因幡は見覚えのある姿に瞠目した。 「あ、あや子さん…?」 平塚の口から出た名前を呼べば、丸いその目が無言で因幡を見上げた。そして再び稲荷に視線を戻すと、一枚のハガキを突き付けた。 「このハガキを描いたの、お兄さんでしょう?」 小首を傾げる幼い仕草に反し、利発そうな目が見張る。稲荷は口元に微かな笑みを寄せ、商品を片付け始めた。 「そうやで。因幡、この子って例の平塚さんとこの?」 「そうだけど…。取り敢えず人を指さすな、良家のお嬢さんだぞ。(*15)級がそもそも違う」 「山手に住めるくらいやでそうやろなぁ。そんなお嬢さんが忘れ物を届けに来てくれるやなんて、お礼の一つでもしやな失礼に当たるで」 「え?」 「君、因幡の忘れもんを届けに来てくれたんやんな?お礼にそこのカフェでアイスクリン(アイスクリーム)でもどうやろ」 「だから良家のお嬢さんを誘うなって!男と一緒になんていいわけないだろ!!」 「あははっ…!因幡、頭固いなぁ」 「山手のカフェは欧米人も多いから平気よ。それに、兄妹だって言えばどうにかなるもの」 「ほらみぃ」 稲荷はあや子の言葉に溌剌(はつらつ)と笑った。因幡の忘れ物を届けに来たということにすれば、恐らく彼女が咎められることはない。あの娘を溺愛した口ぶりの父親が、あや子を叱るとはとても思えないけれど。 「因幡、見てみて!これが噂のアイスクリンやって!!」 「はいはい、分かったから静かに食え」 ステンドグラスの窓辺で、子供のようにはしゃぐいい大人に因幡は呆れ声で返した。その向かいで静かにアイスクリンを食べるあや子の方がずっと大人に見える。元は花街で禿をしていたと言うし、厳しく躾をされて育ったのだろう。 「ほんで、君はどうして因幡を追いかけて来たん?」 柄の長いスプーンを持ち、稲荷があや子に問うた。ハガキについて聞きたいことがあるとして、そもそもどうして因幡を追いかけようと思ったのか。 「このお兄さんから(*16にかわ)のにおいがしたから、てっきりお兄さんが描いたものなのだと思って」 「成る程。ほんで追いかけた先で俺を見つけたと」 コーヒーカップを持つ因幡は、チラリと横に視線を向けた。稲荷は恐らくあや子が持っているハガキの事情を知らない。しかし、今更席を外して詳細を話すわけにもいかず、成り行きに任せるしかなかった。あや子は一つの缶を机上に置くと、その蓋を開ける。中には何通ものハガキが入っており、全て稲荷が描いたものだった。 「これ、遠くで働いてるお母さんからのハガキなの。お兄さんから買ったものなら、私のお母さんのこと知っているんじゃない?」 鋭い考察に因幡は内心酷く慌てた。 幼いあや子に母親の死は酷だろうと、平塚はずっとその生存をハガキで偽造していた。稲荷は当然そんな事情を把握していなくて、常連客の平塚の存在だけを知っている。 いずれ明かされることだとしても、第三者の口から話していい内容ではない。しかし、そんな因幡の焦りとは対照的に、稲荷は平然とした様子でアイスクリンを口に運び続ける。 「知っとんで」 当然のように言い切り、稲荷は商品として持ってきたハガキをめくり始めた。そしてある所で指を止めると、一枚のハガキをあや子の前に置く。そこには一人の女性が描かれていた。 「岩亀楼(*17がんぎろう)の遊女、藤の里。本名はフミ。縁起物の俺のハガキは遊女が上客なんかに出すのに向くで、数年前まで港崎に出入りしてたんや」 あや子は置かれたハガキを手に取り、まじまじとその絵を眺めた。真っ直ぐな栗毛をした女性は、あや子に似ていると言われればそのような気もするが、写真ではないのでなんとも言えない。 「けど、藤の里に会ったんはそれっきり。遊女は花街から出られへんし……」 「隠さなくていいよ。お母さんはもういないんでしょう?」 言葉を遮ったあや子に、因幡と稲荷は無言で目を見合わせた。その反応を見たあや子は惜しそうに微笑する。最初から全て分かっていたのだ。それは禿をしていた時分に、周りから伝えられた情報なのだろうか。 「お母さんがもういないことは分かってた。けど、私が知りたいのは、お父さんと血が繋がっているかどうかってこと。もしそうじゃなかったら…」 「まぁ、紫の君って考えたくもなるやろなぁ」 「い、稲荷!お前、なに言ってるか分かってるか?!」 「当たり前やろ。言っとくけど、花街育ちはそこらの人間よりずっと(さと)いで」 そんな指摘に因幡は閉口した。 禿の平均年齢は七歳前後。そんな年齢の自分を身請けするということは、源氏物語の紫の君のように、想い人の子供を理想通りの女性に育てる考えなのではないかと疑いたくもなる。周囲にだって同じことを考える人が全くいないとは思えなかった。 「時に、君のお父様は髪が癖毛なんやない?」 脈絡のない質問に、因幡とあや子は揃って目を瞬かせた。だが、稲荷の表情は変わらず、真面目に聞いていることが伺える。 「そうだけど…」 「それで恐らく濃い黒髪のやや福耳」 「そうだったとして、何が言いたいの?」 「君がお父様の血を引いとる可能性が高いってこと。髪の癖や濃淡、耳元。どれも遺伝には優劣がある。まぁ、同じ条件の人間もこの世にはおるで確証はないけど」 因幡は溶け始めている残りのアイスクリンを掬い、添えられたウエハースと一緒に口へ運んだ。半結びにされたあや子の髪は三つ編みを解いたように柔らかく波打ち、その耳はやや福を持っている。それは平塚の遺伝子の表れと捉えることも出来た。 「血の繋がりがなかったとて、愛されとると俺は思うけどなぁ」 あや子の視線に因幡が見覚えを感じていると、隣の稲荷がぽつりと呟く。聡い聡いと言えど、まだ十にも満たない少女なのだと思った。 「愛されてますよ」 それまで黙っていた因幡は咄嗟に口が動いた。部外者が憶測でものを言うのは間違っているかもしれないが、両親の顔も知らない因幡は、平塚のあや子に向けた言動を何度羨ましいと思ったことか。 「だって、母親が生きていると偽るのにハガキを出すなら、普通のハガキでいいじゃないですか。それなのに受け取り手にツキが回るなんて理由で、一枚一円もする稲荷のハガキを、わざわざ山手から東京まで買いに来るんです。愛していなければそんな苦労するわけがない」 歩行が困難な怪我をしても入院しなかったのは、屋敷を離れ女中と二人にさせることが不安だったのだろう。あや子を身請けしたのだって、自分の血を引いていない可能性を重々承知しての行動に違いない。 「その目元と甘え下手はお母様譲りやろか」 「え…?」 「持病で長くはないし、貴方の子かも分からない子供がいるけれど一緒になりたい。そう言えとったら、君がこんな風に悩んだりせんだやろ」 その言葉が事実なのか憶測なのかは分からない。現実をあまり美化しすぎているかもしれないけれど、証明のしようがないことなら信じたい方を信じるのが正解なのではないか。 「大事なことはちゃんと言わなあかんで。ほんまはお父様にずっとお礼が言いたかったんやろ?」 「でも、今更どんな顔で言えばいいか…」 「阿保(あほ)やなぁ、その為のハガキやん」 にんまりと笑った稲荷は、あや子の前に置いたハガキを人差し指の先で軽く突いた。 「私、一円なんて持っていないもの」 「君が持ってるもんやったら金銭やなくてもええんよ。これはツキを回す為の対価なんやから」 謎々のような稲荷の言葉にあや子は暫し考え、一度家に戻ると言って腰を上げた。またあの長く伸びた坂を上り、二人が洋館の門の前で待っていると、駆け足で戻って来たあや子が包みを差し出した。 「これ、お女中さんと一緒に作ったの。私一人のものではないけど」 「確かに頂戴しました。ほな、これは君のもんや」 手渡したハガキにあや子が微笑み、その頬に浮かんだ笑窪(えくぼ)が平塚のそれと重なって見えた。帰りの鉄道に揺られる中、稲荷はあや子から受け取った包みを膝の上で開ける。 「成る程、屋敷に入った時の匂いはこれか」 ビスケットを焼く匂いなんて馴染みがないので、因幡は咄嗟に正体が分からなかった。砂糖とバターを焦がした匂いはまるで夢のような芳香だ。甘いものが好きな娘の為に、製菓経験のある女中を雇ったのもやはり愛情からきているのだと思う。 「それにしても、大事なことはちゃんと言えとか…。稲荷がよく言えたもんだな」 早速ビスケットを頬張る稲荷に、因幡はやや刺のある物言いをした。 「大事な場面こそ黙るくせに」 口喧嘩の時も、拗ねた時も、体を重ねる時だってそう。大事な場面で寡黙になる稲荷の癖はずっと変わらない。 「ほら、また黙る」 窓辺に頬杖をついて追い討ちをかければ、稲荷はビスケットを咀嚼しながら視線を逸らした。二人の沈黙を鉄道の走る音が暫し埋め、漸く稲荷が口を開いた。 「因幡かて大事なことは言わへんやん」 ぽつりと呟かれたそれは、正直痛い所ではあった。即座に反論が出来ないのは少なからず身に覚えがあって、結局はお互い様なのだ。因幡はヤケクソ気味に頭を掻き、言葉を探しては考えあぐねる。 「俺は……稲荷にとってなんなのかなって、ずっと思ってるよ。ただ都合がよかったから抱かれてるだけなのかなーとか、別に好きでもなんでもないのかなーとか、それだったら嫌だなーとか。それに……」 「ちょっ、ちょっと待て待て!今ここで言うことやないやろ…!!」 「それに、愛していなければそんな苦労をするわけがない」 あや子に向けた言葉をそっくりそのまま差し出せば、頬に朱を差した稲荷が目を瞬かせた。 「この会話やめよや…。ばり恥ずい」 「嫌だ。俺のことどう思ってるか答えて」 「えぇー…。そんなんわざわざ言わんでも……あっ、それより見てみぃ!今日はえらい月が綺麗やで!満月ちゃう?!」 窓の外を指し、逃げに走った稲荷に些かの苛立ちを覚えた。しかし、無理強いしたところで、言いたくないことは決して言わない主義の男だ。月時雨の中を走る鉄道に揺られ、きっとこんな日が続くのだと思った。 (にかわ)岩絵具(*いわえのぐ)のにおいに慣れ、敷島の紫煙を心地よく感じる瞬間、因幡は稲荷に侵されている気がしてならない。そして、コーヒー入りの角砂糖を溶かすあの舌にまた今日も誤魔化される。 「あれ、稲荷出かけるのか?」 年の瀬も迫った頃、珍しく外出の準備をする稲荷の背中に因幡が声をかけた。 「今日は平塚さんとあや子さんがハガキを買いに来るって言ってたから、早めに帰って来いよ。平塚さんも会いたがってたし」 「分かった。野暮用やですぐ戻るわ」 そう言って稲荷が出た外は小雨が降り始めていた。寒い上に雨が降ると、煮売りをしに出向くのにやや不向きで、そして何より稲荷の寝汚さ拍車がかかる。 (明日はなにか温かい料理でも作るか…) 寒い寒いと言っては因幡を抱き寄せ、なかなか布団から出してくれない光景は毎年のこと。しかし、鬱陶しいと口先で言っておきながら、嫌いかと言われるとそうでもないのだから重症だ。 翌日の仕込みを考えつつ厨の片付けをしていると、正面玄関の戸を小突かれる音がした。平塚親子が来たかと思い、因幡は急いで玄関の戸を開ける。だが、そこに立っていたのは見知らぬ男性二人で、その腰にはサーベル(洋刀)が下げられていた。彼らは因幡の顔を見ては目配せをし、首を横に振る。 「こちらは稲荷という男性がお住まいかと思いますが、ご在宅ですか?」 「稲荷は外出中ですが、何か?」 「詐欺の疑いで話を聞きたい」 その刹那、因幡は表通りの雑踏が遠退いた気がした。聞き馴染みのない単語が現実として受け止められなくて、返事をすることさえ忘れ。目の前の警官らしい男性は何を言っているのかと。 「慶応の日本画家、稲荷青洲の模造品で荒稼ぎをしている疑いがかけられている」 見せられた絵は経年劣化をしていたが、確かに稲荷のそれとよく似ている。 それでも到底信じることは出来なくて、困惑する因幡が立ち尽くしていると、警官の背後で草履の音が立ち止まった。警官二人が振り返ると同時に、瞠目した稲荷の顔を見る。次の瞬間、(きびす)を返し走り出した稲荷の黒髪が尾を引いた。 「追え!逃すな!!」 警官の怒号が稲荷を追いかけ、因幡はその場から一歩も動けなかった。警官の姿を見ただけで逃げ出した稲荷のそれは、容認以外の何があるのだろう。 次の日には因幡も警察署に呼ばれたが、何も知らされていなかったと事実を述べることしか出来なかった。知らされていたならば、どれだけマシだったかとさえ思った。 それから数日経っても姿を表さない稲荷に、閉めたままの店の前でぼんやりと看板を見上げる。 「災難だったわねぇ、仕事仲間が詐欺師だったなんて」 噂を聞いたらしい近所の女性に声をかけられ、因幡は返事をするでもなく振り返った。 「でも、因幡さんの煮売りの味は本物だもの。一人でまた働けばいいじゃない」 同情してくれる周囲の声に因幡はやはり返事が出来なかった。自分の料理は果たして本物だったのだろうか。稲荷が嘘で、因幡は本物で。因幡のそれを本物にしてくれたのは、今や浅草周辺で話題の詐欺師なのだ。 けれど、思い出せば稲荷は出会った頃から不可思議な存在だった。過去や身の上の話をせず、どこの出自か分からない言葉の訛り。詐欺師として各地を転々としていた影響なのだろうか。 (逃げるなら、俺も一緒に連れて行けばいいのに) 残された身にもなってくれなんて、未だ良さの分からないに敷島に火をつけ項垂れる。目を瞑ればまるで隣に稲荷がいるようだった。膠と岩絵の具と敷島煙草。最初はそれらの癖のあるにおいが少し苦手だった。 しかし、今は苦味から癖までこんなにも愛おしい。仕事をする気にはなれず、因幡は寝ているのか起きているのか分からない日々を過ごした。世の中はすっかり大晦日の空気で、そこまで迫った新年に毎日が忙しない。その慌ただしさが、因幡をなんとなく置いていかれるような感覚にさせた。 (このまま稲荷が見つからず、事件も何もかも忘れ去られたりしないかな…) 師走の終わりに、二年参りで人がごった返す浅草を二階の窓から見下ろしていた。すると、階下で戸の開く音がして、因幡はパッと振り返る。徐々に近付く足音は何故か聞き覚えがある気がして、行方をくらましていた稲荷の姿に息が洩れた。 「久しぶり」 まるでお尋ね者とは思えない軽い挨拶に、呆然としていた因幡の体は漸く動く。感情のままに抱き寄せた稲荷は、以前のようなにおいがあまりしなかった。 「こんな所で何してるんだよ!早く逃げないと…!」 両肩を掴み声を荒げれば、稲荷が吹き出すように笑った。そしていつもの訛り口調で飄々と問う。 「因幡、自分がなに言ってるか分かっとる?」 「当たり前だろ!稲荷こそどれだけ呑気なんだよ!」 凪いだその目の理由が因幡には全く分からない。逃げるなら自分も一緒にと、何度だって思った。けれど、稲荷はそうしてくれない気がするのはどうしてだろう。 「殺されるとは思わんの?目の前におるんは詐欺師やで?」 そんなことを言われても、因幡は稲荷青州という日本画家を知らない。悪足掻きかもしれないが、稲荷が詐欺師だと信じてすらいないのだ。因幡にツキを運んでくれたのは稲荷で、いつまで経っても寝汚くて、口寂しさを敷島や角砂糖で誤魔化すような男だった。 「俺のことを殺すなら殺せばいい。でもそうしたら俺は稲荷を必ず殺し返すよ」 因幡よりやや背丈の低い彼は、自宅に籠って絵を描いてばかりの細い肢体をしている。 仮に凶器を持っていたとして、この距離感であればその息の根を止めることは不可能ではない。因幡は視線を合わせたまま、稲荷の首を掴み絞める寸前まで窄めた。 「俺を殺すか、一緒に逃げるか。稲荷が選んで」 狂気じみた問いに稲荷は欠片も動じず、真っ直ぐに目を見つめる。そして静寂の中にか細い声を洩らした。 「たまに視える人間がおるで、初めて因幡と会った時そうと違うんかなーって思ってたんやけど。やっぱり違かったか」 残念そうに微笑した目元と言葉の意味が分からず、首元の手が緩んだ。そして不意に視界が霧がかり、因幡は意識を手放した。 目を覚ました時には二階の窓辺に横たわっていて、今までのことが全て都合のいい夢だったのだと溜息が溢れる。窓の外には変わらず提灯の並ぶ浅草が見えるので、うたた寝してしまう前から然程時間は経っていないようだ。 (雨も降って来たし、これは雪になるかな) ぽつぽつと降り出した雫に空を見上げた因幡は、雲一つない夜空を捉え小首を傾げた。 これではまるで日照雨(そばえ)ではないか。視線を下に戻すと、煌々(こうこう)と灯っていたはずの提灯が消えた箇所を見つけ、気付けば外へと駆け出していた。夢か現の中で稲荷が言った言葉。それは果たしてどういう意味だろう。 「あら、雨で火が…」 そんな呟きを溢した女性の握る提灯もまた灯火を絶たせ、少し離れた場所で消える別の提灯。そしてまた次、また次と徐々に提灯の消える怪奇を因幡は必死に追う。 人混みを掻き分け辿り着いたのは、ひび割れを補強する為に鉄骨などで半分ほど囲われた凌雲閣だった。その見た目の危うさから人々の足は遠のきつつあり、塔の中も人は殆どいない。お尋ね者の稲荷にとっては都合が良さそうだ。 辺りを見渡した因幡の横で何かの稼働する音がして、音の発信源に思わず息を詰まらせる。それはもう何年も前から故障で動いていないはずのエレベーター。恐る恐る歩み寄り震える手でボタンを押すと、間も無くして因幡を迎えるように扉が開いた。 (もし、この先に稲荷がいたら…) なんと声をかけるべきかと考えるが、正しい答えなど思いつくはずもない。因幡は展望台へと向かうエレベーターに乗り込み、かつてないほど早鐘を打つ心臓の音を感じていた。 間も無くして到着したエレベーターのドアが開くと、目の前に広がった光景に足が竦んだ。そこにあるのは間違いなく東京の街並みなのに、まるで見たことがない雰囲気を纏っている。現世でないような、そうであるような不思議な空気感が因幡の呼吸を浅くさせた。 「ありゃ、やっぱり見つかったか」 聴き慣れた呑気な声に顔を向ければ、そこには記憶の中と変わらない様子の稲荷がいた。 「この雨も、俺が詐欺師扱いで信仰心があらへんと制御が出来んしなぁ」 まるで独り言のように呟く稲荷は、糠星(ぬかぼし)の空から降る小雨の中で、展望台の縁に飛び乗る。 「おい、危ないって…!」 因幡が咄嗟に駆け寄ると、またあの凪いだ目がこちらを見つめた。掴みかけた手はかわされ、屈むと同時に稲荷が妖しく目を細める。 「狐の窓。知っとるやろ?」 それは信仰深い人だけが信じるか、子供騙しの手遊びだった。改革、開国が進む世の中で徐々に薄れる信仰心。両手を裏表反対に向かい合わせ、中指と薬指以外を立てたまま、小指と人差し指の先を重ねる。 その間に出来た空間を覗くと、妖怪変化の姿を見られるとかなんとか。一つに結ばれた稲荷の黒髪を、因幡はまるで尾のようだと冗談めいて言ったことがある。しかし、稲荷が組んだ窓からは豊かな狐の尾がありありと見えた。 「信仰心がなければいずれ廃れる体や」 窓を解いた稲荷は寂しそうに言った。 彼の描くツキの回るハガキとは、そういう意味だったのだ。恐らく物はハガキでもなんでもよかったのだろう。ハガキを買う代金は賽銭と同じ扱い。あや子に代償を求めたのは対価がなければツキが回らないから。彼女は供物としてビスケットを差し出したので、きっとツキが回ったに違いない。 人間は目に見える物や代償があった方が信じやすい生き物だった。 「じゃあ、稲荷青洲って日本画家は…」 「前の俺の姿。同じ奴が描いてるんやから、作品が似てるってそらそうやろな。言っとくけど、特別を作る気はなかったんやで?人間は絶対俺より先にいなくなってしまうで虚しいだけやし」 ならば、何故自分を側に置いたのか。そんな疑問を口にすることを因幡はしなかった。聞いたところで答えてくれるとはとても思えない。稲荷とはそういう男なのだ。 「信仰心が薄れれば俺もこの体は保てへん。これで終わりや。最後はパッと大団円が潔いと思わん?」 なんて穏やかに言うのだと思った。稲荷とはまだ出会って三年程度で、言いたいことも、言えていないこともたくさんある。因幡は一歩踏み出すと同時に、縁のギリギリに立つ稲荷の手を掴んだ。 「手ぇ離さへんと因幡も落ちるで」 「いいよ、落ちたっていい。俺を殺すか一緒に逃げるか。稲荷が選んでって言っただろ」 「阿呆言うな。俺は落ちてもこの体が消えるだけやけど、因幡はちゃうやろ。悪いことは言わんからそのまま現世(うつしよ)に帰り。ほんで俺のこと忘れんで、ずっと引きずっといて」 なんて残酷なことを言うのだと思った。 自分は置いていかれる側の辛さを知っているくせに、人にそれを背負わせようとする。そして忘れることも許さず、心だけを喰らう。 「分かった…。なら、俺が殺す」 そう言った直後、展望台から飛んだ二つの影に、浅草を行き交う人々の悲鳴が響き渡った。どっと強まった雨はまるで遣らず雨のようで、因幡が現と常世(とこよ)彷徨(さまよ)ったことは間違いないだろう。 雨で足を滑らせ、凌雲閣の展望台から誤って転落した一人の青年の話は、新聞にも載り暫く世間を騒がせた。 「お兄さん運がよかったですよ。あの高さから落っこちたのにこの怪我で済むなんてな」 意識を取り戻した病院で、因幡が最初に聞かされた話はそんな感じの内容。 (いわ)く、凌雲閣を補強する鉄骨に途中でぶつかり、それで勢いが緩まったのかもしれないと。同室に入院する患者から見せてもらった新聞には、転落したのは因幡一人ということが記されていた。飛び降りる時は確かに稲荷を抱きしめていたから、その際に稲荷は人間の体を失ったのだろう。 因幡が退院する頃には、稲荷の贋作詐欺事件も犯人不在のまますっかりほとぼりが冷めてしまっていた。どうやら今の話題は華族令嬢の誘拐事件らしく、絶え間なく発生する事件に話題は次から次へと移り変わる。それと同時に季節も移ろい、桜が見頃な季節に因幡は東京を離れることにした。 (こんな所に勝手に(ほこら)なんて建てたら怒られるかな?まぁ、その時はその時か) 今はもう空き家となったハガキ屋の側に建てた小さな祠。因幡は腰を屈め、コーヒー入りの角砂糖を供えた。信仰心がないと人の体を保てないと言うならば、人々がその存在を信じた先でもう一度同じ姿を手に入れられるのではないかと。 しかし、同じ場所で待ち続けるほど因幡は辛抱強い性格でもなくて、彼の訛りを頼りに南の方へと行ってみることにした。 (コーヒー入りの角砂糖で作った甘露煮。他の地域でも受け入れられるかな?) 東京では物珍しさから人目を引いたが、他ではあまり珍妙な食べ物は受け入れられないかもしれない。祠の前に屈んだままそんなことをぼんやりと考えていると、因幡の視界に影が差した。 「えっ…」 顔を上げ、初めて出た声はそれだけ。上から覗き込むようにした青年の横髪が枝垂れ、黒塗りの目が笑い皺を寄せる。 「いな…いや、は?」 「あははっ!予想通りの反応するなぁ」 和装にカンカン帽を被り可笑しそうに笑う青年は、見紛うことなく稲荷だった。けれど、因幡からすれば驚くなという方が難しい。 「俺も、もう無理やて思ってた。実際、浅草十二階から落ちた時は一回消えたし。けどなぁ、どっかの誰かが毎日欠かさずお供えして信じきっとるで、消えるに消えれんくなってん」 隣に屈んだ稲荷は以前と変わらず、目尻に笑い皺を寄せた。そんな稲荷を因幡はただじっと見つめ、微かに香ったにおいを懐かしく思う。 「俺の存在を信じとるんは、どこの誰やろなぁ?」 距離を詰められ、軽くぶつかった帽子の(つば)に前髪が乱された。そして間を空けず重なった唇に漸く現実めいて、因幡は己の呼吸が浅くなっていたことを知った。 「ほんでも因幡が生きとる間だけの話や。因幡に置いていかれるんは堪えるけど、しゃーないで残りの人生付き合うたろ」 やれやれと息を吐き、立ち上がった稲荷に因幡も慌てて立ち上がった。伸ばした手はもうかわされることはなくて、繋いだその体温に安堵する。 「俺、稲荷のこと置いていかないから」 腕を引き寄せ断言すると、今度は稲荷が目を瞬かせた。そして吹き出すように笑う。 「あははっ…!長生きして、最後は俺も一緒に殺してくれるってこと?まぁ、人間の寿命なんて俺らからしたら一瞬やけど頑張ってやー」 軽快に笑うその声は雑踏に掻き消され、二人は確かな目処もなく東京を離れた。自分たちの顔が知られていない土地を探し、腰を落ち着かせた暮らしを始めたのは、そこから半年ほど経った頃だった。 「稲荷ー!」 往来の中で見つけたその名前を呼ぶと、狐の尾のようだった黒髪を切り、ザンバラとなった稲荷が振り返る。因幡は片手に山鳥を下げたまま、立ち止まった稲荷の元まで駆け足で向かった。 「これ、今そこで買った山鳥。仕留めたばっかりの新鮮な鳥だから鍋にしようと思って」 「おっ、ええなぁ。ほんなら酒も買ってくか」 「うん。鳥鍋なら北の地酒か、それとも…」 因幡が相性のいい酒を考える最中、仕留め損ねていたのか山鳥が突如暴れ出した。 「わっ…!」 羽ばたいた動きで羽が散り、くるりと()を描いた窓越しに視線が交差する。まるで怪奇でも見たかのように稲荷が瞠目し、因幡はとうとう覗かせてしまった尻尾を隠した。現世では狐の窓と同じく、山鳥の羽も異界の窓と呼ばれるらしい。 「稲荷」 名前を呼ぶと、驚愕した様子で立ち尽くす稲荷が肩を跳ねさせた。因幡は地面に落ちた羽を踏み締め、うっそりと目を細める。 化かし化かされのこの現世(うつしよ)で、吉兆祥瑞(*18きっちょうしょうすい)化身(けしん)を騙した狐は()しき存在か(いな)か。 存外(ぞんがい)、二人は既に厄介なものに取り憑かれているのかもしれない。
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